"南房総" の検索結果 698 件

  1. 2023・令和5年3月議会⑦  ー一般質問3日目(最終日)ー

    2023・令和5年3月議会⑦ ー一般質問3日目(最終日)ー

    一般質問が、本日で全て終わりました。私の順番は2番でした。・・・という報告だけです。とりあえず今日のところは、明日は予算特別委員会(令和4年度分の補正予算の審査)です。12-0501kamimuragiin050227.pdf (minamisatsuma.lg.jp)南さつま市議会議会中継 - 発言一覧 (discussvision.net)

  2. 土佐の森・文芸 (丁卯上京誌/あらすじ)

    土佐の森・文芸 (丁卯上京誌/あらすじ)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆丁卯上京誌(あらすじ)慶応3年(1867)は丁卯の年、慶応4年=明治元年(1868)は戊辰の年<戊辰戦争>幕末から明治維新の時代は激動の「混乱期」であった。幕末、明治維新の混乱期(融通無碍/南史観<私観>)『丁卯上京誌』は、慶応3年の真吉の日記である。・・・・・・・・・...

  3. 土佐の森・文芸 (三条実美)

    土佐の森・文芸 (三条実美)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇三条実美<さんじょう さねとみ>(1837年3月13日<天保8年2月7日>- 1891年<明治24年>2月18日)幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣も...

  4. 2023・令和5年3月議会⑥ー一般質問(2日目)ー

    2023・令和5年3月議会⑥ー一般質問(2日目)ー

    一般質問の2日目が終わりました。本日も、5人が質問を行いました。市長の腹案が明らかになる先の「令和4年度 南さつま広域圏道路・河川整備促進協議会」で、市長が挨拶の中で述べた「薩摩半島横断道路の起点場所には腹案がある」の具体的内容が明らかになりました。同僚議員による質問は、「薩摩半島横断道路の早期整備に向けて、南さつま市の起点ルートについて、市長はどのように考えているか」でした。市長による答弁...

  5. 土佐の森・文芸 (日記・日新録<龍馬暗殺の日>)

    土佐の森・文芸 (日記・日新録<龍馬暗殺の日>)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇龍馬と慎太郎が暗殺された夜、真吉は京都の土佐藩邸にいた。当日の日記が残っている。「日新録」がそれである。それには、通説と違う記述もある。*家僕藤吉がもたらしたのは名刺ではなく、十津川某からの手紙であったこと。*龍馬と慎太郎が灯下にそれを読んでいるときに敵が襲ってきたこと。...

  6. 土佐の森・文芸 (中岡慎太郎伝<片岡正法著>)

    土佐の森・文芸 (中岡慎太郎伝<片岡正法著>)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(片岡正法著)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇■慎太郎伝幕末に勤王の志士として活躍した中岡慎太郎は、天保9年(1838)4月、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の北川村柏木)に、大庄屋中岡家長男として生まれた。若き日をこの地で過ごした彼が、やがて土佐藩を脱藩し、薩長同盟などの政治運動に奔走、坂本龍馬と共に幕末の殺伐たる動乱の中を駆け抜け...

  7. 土佐の森・文芸 (真吉が送った手紙<大政奉還!!>)

    土佐の森・文芸 (真吉が送った手紙<大政奉還!!>)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆真吉の手紙慶応3年(1867)10月14日付けの真吉の手紙がある。(土佐山内家宝物資料館蔵)真吉が大政奉還の情勢に鑑み土佐の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)宛てた「奮発」を促す手紙であった。桑原介馬は真吉の弟子で江戸への長途に同行した人である。この前日(13...

  8. 土佐の森・文芸 (本山只一郎)

    土佐の森・文芸 (本山只一郎)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇本山只一郎宛の坂本龍馬 書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)龍馬の手紙(youtube)この手紙が書かれた時期には、本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。文中、龍馬は「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、「運んできたライフル銃の購入を...

  9. 土佐の森・文芸(間崎哲馬)

    土佐の森・文芸(間崎哲馬)

    間崎哲馬秀才として知られ、土佐勤王党の理論構築を担う論客であった。酒と詩と睡眠を好む変人でもあった。ーーーーーーーーーーーーーー◆勤王党への本格的弾圧始まる《日記:倦遣録より》幕末足軽物語樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP229>・・・・・・・・・文久3年6月9日昨夜、弘瀬健太と平井収二郎と間崎哲馬が賜死(切腹)した。======《融通無碍》弘瀬、平井、間崎の3人が高知...

  10. 土佐の森・文芸 (大坂で龍馬に逢い一円渡す)

    土佐の森・文芸 (大坂で龍馬に逢い一円渡す)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆竜馬に逢う一円贈る文久2年(1862)7月23日の真吉日記に、唐突に「竜馬に逢う、一円(原文は「一圓」)贈る」とある。「金本位の江戸の両」との混同を避けるため「銀の大坂」は円と呼称したらしい。円と両は等価である。この時、真吉は藩主に随行して大坂長堀の藩邸にいた。たまたま...

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