"藤原竜也" の検索結果 399 件

  1. 崇徳院の母(前)

    崇徳院の母(前)

    藤原氏の一族で閑院流というのがある藤原氏は不比等の子の時に兄弟の血筋を区別して南家・北家・式家・京家に分かれた二男前房(ふささき)の血筋を北家とよんでいるその嫡流藤原師輔の子が兼家で、その子が道隆、道長である兼家の弟が公季(きんすえ)であるその公季(きんすえ)の流れを閑院流とよんでいる公季は道長の叔父である、公季の子は道長のいとこにあたる閑院流の閑院は彼の先祖北家の繁栄を築いた冬嗣の邸宅のこ...

  2. 藤原京の設計モデルはどこか?

    藤原京の設計モデルはどこか?

    今日は「なにを」以下を説明しましょう。「なにを」は言うまでもなく、藤原京と藤原宮です。この言葉は似ていますが、少し違いがあります。藤原京は学術用語です。新しい呼び名で、古代からこの名称が使われていたわけではありません。明治時代になって学者の喜田貞吉が初めて唱えたものです。藤原京は藤原宮を含むだけでなく、官僚などの住む周辺を含んだ広い範囲を言います。大和三山である,香具山、畝傍山、耳成山をも含...

  3. ゆめのかよひぢ  ひとめよくらむ

    ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ

    小倉百人一首歌番号=18ふじわらのとしゆきあそん 藤原敏行朝臣 (出典 古今集)住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ すみのえの きしによるなみ よるさへやゆめのかよひぢ ひとめよくらむ 《我流抄訳》逢瀬の夢の夜さえも人目を気にしてもうお帰りになってしまうのですか寄せては返す住の江海岸の波のように《我流意訳》わたしのいる住の江の海岸に寄せては返す波のように...

  4. 御堂関白の浄土信仰/崇徳院②

    御堂関白の浄土信仰/崇徳院②

    長兄関白道隆(953-995)は酒のせいで短命であった末弟御堂関白藤原道長(966-1027)は長寿であったそれでも病気がちだったと言われ、晩年浄土思想に傾いてきた栄華を自らの一統で独占していたのだから当然ともいえる道長によって創建された最大級の寺院が法成寺(ほうじょうじ)である東京極通(今の寺町通りくらい)の東側に建てられたこれを御堂と言い、御堂関白の名の由来である道長は晩年に出家した最初...

  5. 京都一の大酒飲み/崇徳院➀

    京都一の大酒飲み/崇徳院➀

    京都の大酒飲みで且つ酒で失敗したのは藤原の道隆(995没)だと小生は思っている道隆は摂政関白藤原兼家の長男、父の後を継いで関白に、あの巨大な藤原氏の氏の長者であるだが、歴史に出てくるほどの酒好きである関白を勤めて数年、42才で若死にした死ぬ間際まで酒を手放さなかったというほど、1000年も前の現代人である娘は一条天皇の皇后、枕の草紙の清少納言が仕えた藤原の定子である道隆は容貌・立ち居振る舞い...

  6. 藤原宮の所在位置と、宮殿の姿を確認しよう

    藤原宮の所在位置と、宮殿の姿を確認しよう

    「どこで」を見る前に、地図で藤原京のある全体を把握しておきましょう。藤原宮とその周辺を全体として把握するための地図を手書きで描きましたので、それを紹介しましょう。網掛けした部分が香具山ですが、実際の大きさは畝傍山と同じくらいです。中の名前などを書き入れたため大きく表示しています。手書きの地図の全体は藤原京を示していますが、藤原宮の詳細図もここで紹介しておきましょう。宮殿の内部を含めた図です。...

  7. 大阪桐蔭藤原恭大

    大阪桐蔭藤原恭大

  8. 行幸で目指した地点はどこか

    行幸で目指した地点はどこか

    前回は持統天皇が藤原宮に行幸した年月日を中心に紹介しました。したがって、「いつ」と「だれ」が明確になったことになります。では、つぎに5W1Hの「どこで」以下が問題になります。「どこで」は「藤原宮」ですが、ここは一辺が約1Kmもあるので、広大です。そこで、さらにピンポイントに地域を絞り込む必要があります。その場所こそが非常に重要だからです。持統天皇もそのピンポイントの場所を意識していたと思われ...

  9. 豊島八段!王位戦挑戦!

    豊島八段!王位戦挑戦!

    4日、王位戦挑戦者を決めるリーグ戦の、白組覇者豊島八段と、紅組の覇者羽生竜王との挑戦者決定戦が行われたが、豊島八段が勝利した。角交換腰掛け銀!終盤どちらか勝つか分からないスリリングな展開であるが見事に豊島八段が制した。これで王位戦の挑戦者である。豊島八段は6月6日から羽生棋聖と棋聖戦で戦うが、並行して同時に王位戦で菅井王位と闘う。(羽生竜王も名人戦と棋聖戦を並行して闘うわけであるが…。)豊島...

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