"遊郭" の検索結果 67 件

  1. 米子灘町遊郭ぞめき一

    米子灘町遊郭ぞめき一

    『鳥取県史』によると、安政五(1858)年八月米子灘町の廻船問屋のものたちが、他国の入港のとき、飯盛女を置いて接待させることを願い出たところ、灘町の廻船問屋のみに、制限数を設けて他国生れの婦人を雇うことを許しました(「御国日記」)と有ります。『米子市史』(『新修米子市史』ではありません)によれば、米子には江戸期より灘町には飯盛女置き、港繁栄の一策として公許されていました。しかし次第に東西南倉...

  2. 嶋原遊郭ぞめき島原トルコ温泉

    嶋原遊郭ぞめき島原トルコ温泉

    昭和28年9月25日京都新聞夕刊『トルコ城の虜』“うーん、痛てててて・・・”見ようによればどうともとれる夫婦ゲンカ、女性対男性のレスリング、いやいやそれはその・・・と怪しい想像をたくましうするむきもあろう。そのいずれもはずれており、そのいずれもが当っている。陰陽は相殺し、紙に裏表があるように。これは最近各地に店開きしたトルコ風呂である・麗人のアンマに悦に入っていると夫婦ゲンカの種をまき、レス...

  3. 滋賀県日野町清雲新地全滅ス

    滋賀県日野町清雲新地全滅ス

    昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』の「日本全国遊廓一覧」では滋賀蒲生日野町大字日野青雲新地で貸座敷数四、娼妓数七と大変小規模な遊廓だった様です。昭和五年刊『全国遊廓案内』を見ても「日野町遊廓に滋賀県日野町にあって、右記の水口町の隣接町である。此処も妓楼や制度が判明して居ない。」が既述の全てです。実はこの二書が出版された時点でもう日野の遊廓は存在していませんでした。内務省警保局『公娼と私娼』...

  4. 大津、八丁、四の宮、真町遊郭その一

    大津、八丁、四の宮、真町遊郭その一

    大津宿江戸の日本橋を出て、東海道と中山道の最後の宿駅が大津宿です。終着の京都三条は目の前です。『旅枕五十三次』に「此地は~略~大に繁昌の所にして、はたご町を大津八丁という。町数すべて九十六丁あり、遊女五百文、又三百文なり。外に百文おちゃづけとて付事、外になき事なり。げいこは京・大坂の風にかわらず。たいこつゞみをうつ故、ざしき大ににぎわし。名物大津絵、名産源五郎鮒。逢坂逢うさかは男女しのびあう...

  5. 大津甚七町遊郭

    大津甚七町遊郭

    甚七町自治会のブログにはその歴史が語られ、強い誇りと愛着を感じる事が出来ます。弘化年中(1844~46)になると幕府の禁令も緩み、広島より来た業者が広島屋開業、その後瓦松という者も遊女屋を始め続々開業。稲荷新地遊廓も明治維新の際は遊女屋軒を並べるほど繁昌する。明治五年、芸娼妓開放令で一時廃業同年十二月、新規営業を許可される。明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされ...

  6. 桂歌丸さん

    桂歌丸さん

    笑点の司会者としてもお馴染みだった噺家の桂歌丸さんが亡くなった。歌丸さんは、横浜生まれだが、遊郭の経営をしていたおばあ様に育てられるといういまでは考えられない家庭環境で育ったことは、有名なはなしだ。そんな、歌丸さん。数は多くないが、何度か生の高座を見たことがある。(つづきは、下をクリック)

  7. 長浜南片町遊郭辰巳藤

    長浜南片町遊郭辰巳藤

    長浜町遊廓の起源は、慶応の初年妙法寺先住の世話で、鉄砲町の内、神明神社の前、南北の筋に五、六軒あったのが始りとされ、明治の初年、県下第一号の公認得て「辰巳藤」が南片町で貸座敷営業をはじめました。明治四年に妙法寺門前町南片に遊女屋渡世が十六軒あり、彦根県知事が大通寺に来たとき芸者が接待したという記録があるそうです。ところが明治五年十一月九日県庁より遊廓廃止の命が下った二日後の十一日に長浜大火で...

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