"伊野尾慧" の検索結果 50 件

  1. 『三国志拾遺 補――東アジア・石刻ほか』

    『三国志拾遺 補――東アジア・石刻ほか』

    コンテンツがほぼ確定しました.以下の通りです.本篇第一『後漢書』『三國志』所見「内属」試論第二類書の「東夷」観第三中江塔梁子三号墓壁画題銘試釈第四所謂「毋丘倹紀功碑」新釈附篇第一古代東アジア世界の構造第二東アジア文化圏論の現在第三古代北東アジア史上の渤海第四魏晋南北朝時代の東アジア――堀敏一著『中国と古代東アジア世界』によせて第五高昌・トゥルファンと中国――玉木重輝著『高昌国物語』によせて第...

  2. 『日本秦漢史研究』第23号

    『日本秦漢史研究』第23号

    酒井駿多「漢六朝期の巴蜀における蛮夷―いわゆる「巴蛮」と「獠」の呼称問題から見る―」を読みたくて(読む必要があると思って)取り寄せた.本号,飯田祥子氏が,伊藤敏雄・関尾編『後漢・魏晋簡牘の世界』を,津田資久氏が拙著『三国志の考古学』を批評してくださっており,両氏にはあらためて御礼申し上げなければならないが,それは機会をあらためるとして,酒井論文を読み進む.同氏も「民族」という概念を前近代史に...

  3. 陣馬山一ノ尾コース

    陣馬山一ノ尾コース

    冬枯れの木立を抜けた朝日は登山道にくっきりと縞模様を描きます。

  4. 一ノ尾テラス

    一ノ尾テラス

    一ノ尾登山道は山道に入ってから頂上まで4KM、その中間2KMのところに一ノ尾テラスと呼ばれる休憩所がありテーブルとベンチがあります。最近貼られた紙を見ると無許可建造物だったようです。

  5. 06TAM605の随葬衣物疏

    06TAM605の随葬衣物疏

    話題があちらこちらにとぶのはこのブログの常として,表題の随葬衣物疏,以前から存在は知られていたのだが,朱雷先生の遺作『吐魯番出土文書補編』に初めて録文と写真が掲載され,全貌が明らかになった.で,タイトル.前涼咸安五年(公元三七七年)隗田英随葬衣物疏とある.何気なく見ていたのだが,ご丁寧に註がついていて,咸安が東晋の元号であることが述べられている.前涼が東晋の咸安を奉用していたことは,咸安五年...

  6. 郭慧〓(王+京)「走馬楼呉簡所見“守録簡”整理与研究」

    郭慧〓(王+京)「走馬楼呉簡所見“守録簡”整理与研究」

    続いて読む.「守錄」の2字に徹底的にこだわった論文.既にこの意味については拙稿でも論じたが,著者の解釈も大筋において認められる.著者はこの2字が記された簡を集めて,その関連性を論じ,さらにはこの2字のある「出」簡(拙稿の貸与簡)の作成に深く関与した郷勧農掾の位置づけに及んでいる.ただその「出」簡がどのようなシステムをバックに持っていたのか,という点についてまで分析が及んでいないので,考察が表...

  7. ついでに

    ついでに

    柿沼陽平氏は吏民田家莂について,「「田家莂」は「徴税側の郷が作成し,郷と県とで分有した納税者台帳」とされる」(43頁上段)とする.末尾の「される」に註が附されており,そこには,2001年の拙稿「吏民田家莂の性格と機能に関する一試論」があがっている.21年前の旧稿だが,そこで私は「徴税側の郷が作成し」たとは書いていない.以下,旧稿からの引用.ようするに,倉曹(倉吏)や金曹(庫吏)に集積された小...

  8. 『中国中古史研究』第九巻

    『中国中古史研究』第九巻

    中国から届いた.中西書局,2021年12月,7-5475-1930-1,108元.復旦大学《中国中古史研究》編委会編だが,凌文超氏が主編といった役割で,「呉簡専号」と銘打っている.私も凌氏から執筆依頼を受けた.一旦は断ろうと思ったのだが(もう雑誌論文は書かないと宣言したことだし,呉簡研究を少しお休みしていたし),日本語原稿でかまわないと言われ,楬について小さな文章を書いた.今日届いた本を開け...

  9. 「涼州を拠点」とした「北伐」

    「涼州を拠点」とした「北伐」

    渡邉説の「涼州を拠点」とした「北伐」とは.以下,引用.諸葛亮の北伐は、直接、長安・洛陽を攻めるものではなく、涼州を拠点として長安を目指すものでした。したがって、涼州の背後にあたる西域の異民族に、諸葛亮は積極的な外交攻勢をかけました。これに対して、諸葛亮と対峙していた曹真は、西域の背後にあたる中央アジアからインドを支配する大国の大月氏国を臣下とすることにより、西域諸国が蜀漢に味方することを難し...

  10. 烏桓・山越・西南夷

    烏桓・山越・西南夷

    朝方,思いついたこと.烏桓も山越も,220年以前に既に曹操や孫権によって大きなダメージを受けて,政治勢力としての存在を否定されてしまった.烏桓はその後,「烏桓突騎」という名で軍事力として,また山越も孫呉によって軍事力として利用されることになる(山越の場合は230年代頃まで侮りがたい勢力として存在はしていたが).西南夷も諸葛亮の「南征」の結果,一部は蜀漢の軍事力に組み込まれる.このあたり共通し...

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