"徳川" の検索結果 296 件

  1. 上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19)

    上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19)

    上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19) 「どうする家康」第6回では、徳川家康(当時は松平元康)が上之郷城を攻める戦いの中で、本多正信と服部半蔵が、甲賀忍者伴与七郎の助けをかりて城内に忍び込んで、鵜殿長照の子供二人氏長と氏次を生け捕りしました。これにより瀬名と子供たちとの人質交換ができることになりました。この話は創作だと思った人もいると思いますが、これは完全な創作ではないと...

  2. 【仕事観】『徳川家康』の格言から学ぶ!現代の組織が長く栄えるための考え方。

    【仕事観】『徳川家康』の格言から学ぶ!現代の組織が長く栄えるための考え方。

    こんにちは。かぴぱらです。前回は、織田信長の格言をご紹介させていただきました戦国の世で知力、武力を持つ豪将や武将を束ねて名前を残した豪傑の信条や生き様は現代社会のビジネスの場でも注目されています。今回は、『最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。』この言葉を残したとされている戦国時代の武将、徳川家康をご紹介します。織田信長同様、徳川家康も歴史書だけでなく、数多くのビジネス書籍や小説...

  3. 安祥城に行ってきた

    安祥城に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・1城主は永享の頃畠山氏の和田親平で居館があった。松平信光、松平清康が岡崎城を築城、安祥松平(徳川本家)が続いた。松平信光が攻めた時、酒井氏に葵の紋を与え、のちに返してもらい徳川の葵の御紋になったという話がある。岡崎城にいた家康の父広忠が父が亡くなると追放され、安祥城に入った。織田信秀が攻め落城し城主は織田信広になった。広忠の力及ばずますます弱体化し、...

  4. 家康も憩いし池に浮寝鳥

    家康も憩いし池に浮寝鳥

    どうする家康。家康が豊臣勢力が構える大阪城を、攻撃するかどうか迷っていた時に、極秘で意見を聞いたのが、最福寺の日善上人。1614年9月。家康はその10日後に豊臣征伐を決断、その後の大阪冬の陣、翌年(1615年)の夏の陣で大阪城は落城。260年にわたる江戸幕府が始まった。家康は軍事訓練を兼ねた鷹狩りで、計2回最福寺のある東金を訪問、八鶴湖畔の「東金御殿」に滞在している。徳川家康と東金は縁が深い...

  5. 服部半蔵登場、ただし武士です。(「どうする家康」18)

    服部半蔵登場、ただし武士です。(「どうする家康」18)

    服部半蔵登場、ただし武士です。(「どうする家康」18) 「どうする家康」第5回に服部半蔵が登場しました。服部半蔵といえば忍者というイメージが非常に強く、「どうする家康」で、服部半蔵が「おれは忍者ではない。武士だ」と叫ぶ場面があったため、驚いた人もいたかもしれません。しかも忍者でないことを強調するため服部半蔵が投げた手裏剣が命中しない場面までありましたが、手裏剣の技があれほど下手かどうかは別と...

  6. どうする家康第5話「瀬名奪還作戦」~本多正信と服部半蔵正成~

    どうする家康第5話「瀬名奪還作戦」~本多正信と服部半蔵正成~

    今回のサブタイトルは「瀬名奪還作戦」。今川を見限り、織田と手を結んだ松平元康(のちの徳川家康)でしたが、気がかりだったのは、妻の瀬名(築山殿)と長男の竹千代(のちの信康)、長女の亀姫が駿府に残されており、人質状態となっていたことでした。その奪還劇が今回の話・・・と思いきや、奪還できませんでしたね。でもって、予告編では、次回のサブタイトルが「続・瀬名奪還作戦」。まさか、妻子を取り返す話に2週も...

  7. 服部半蔵と清龍寺

    服部半蔵と清龍寺

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・1・31信康山には驚いた。二俣城主になった信康、ここで信長の命で切腹した。その時信康があまりに哀れで介錯ができず泣き崩れたという。その信康を供養するお寺である。訪問した時、お掃除をなさっていたお寺さんがいうには今日NHKが取材に、明日は「どうする家康」の俳優細田佳央太さんがお参りにといわれた。松本潤さんも瀬名さんんとお参りに見えたとのこと、とても嬉しそう...

  8. 二俣城址に行ってきた

    二俣城址に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・1・31城主は今川、徳川、武田、豊臣ら、有力大名だった。今川氏の頃は松井宗信、子の宗恒で、今川家滅亡後。信玄に仕えた。家康に攻められ宗常は降伏、今川から徳川に仕えた鵜殿氏長、家康家臣中根正照が城代となる。信玄の手に落ちると依田信蕃に、長篠の戦い後は家康家臣大久保忠世、そして家康の長男信康が城主となり、信長の命で切腹した城となる。その後、豊臣家臣堀尾吉晴が...

  9. 本多正信、登場(「どうする家康」17)

    本多正信、登場(「どうする家康」17)

    本多正信、登場(「どうする家康」17)「どうする家康」第5回では、駿府に残った瀬名と子供たちをどうしても奪還したいと考えた徳川家康(当時は松平元康)が苦慮した結果、本多正信が考えた奪還策を半蔵とともに実行するものの、失敗に終わるという流れでした。瀬名と子供たちは、駿府から岡崎に無事戻ることができるのですが、そのプロセスについては従来の説に加えて新しい研究成果に基づく説がありますが、今回の展開...

  10. 大樹寺《岡崎⑵》(徳川家康ゆかりの地36)

    大樹寺《岡崎⑵》(徳川家康ゆかりの地36)

    大樹寺《岡崎⑵》(徳川家康ゆかりの地36) 大樹寺は、東岡崎駅から直線距離で2キロあります。徒歩では難しいので、バスを利用するかタクシーを利用してください。もしくは、愛知環状鉄道線大門駅から徒歩17分です。大樹寺は、松平家4代松平親忠が文明7年(1475)に勢誉愚底を開山として創建した浄土宗の寺院です。一時衰退しましたが、天文4年(1535)に7代松平清康により伽藍が再興され、多宝塔はその時...

21 - 30 / 総件数:296 件