"文学" の検索結果 196 件

  1. 西宮市分銅町に住んだ泣菫という雅号の詩人をご存知ですか?

    西宮市分銅町に住んだ泣菫という雅号の詩人をご存知ですか?

    一度ご紹介しましたが、薄田泣菫(ススキダキュウキン)という明治後期の詩壇を背負って立った著名な浪漫派詩人薄田泣菫をご存知でしょうか。 泣菫は明治43年から西宮に住んでいました。その旧居「雑草園」について、宮崎修二郎著『文学の旅・兵庫県』では、次のように紹介されています。<羽衣橋のすぐ下から東へと伸びる道を進んでゆくとやがて分銅町―その町の二十三番地が、薄田泣菫の旧居雑草園の跡である。> 訪ね...

  2. 土井晩翠と薄田泣菫

    土井晩翠と薄田泣菫

    土井晩翠終焉の地、晩翠草堂を訪ねました。仙台駅近く、青葉通りに面した晩翠草堂、あたかも日本版バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」を見ているようで、ビルの間に良く残されています。ベルを押して中に入ると、管理されている方が出てこられ、説明していただけました。もともとここには三階建ての晩翠の家があったそうですが、空襲で焼失、仙台二高の教え子が中心になって建てたのが晩翠草堂とのことです。晩...

  3. 西東三鬼が住んだ山本通りの異人館を訪ねる

    西東三鬼が住んだ山本通りの異人館を訪ねる

    モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍した西東三鬼は昭和17年、妻子を東京に置いて単身で神戸に移住、しばらくトーア・アパートメント・ホテルで過ごします。翌年、のちに「三鬼館」と呼ばれることになる西洋館(生田区山本通)に住まいを移しました。彼の著書『神戸』の第六話で昭和18年の夏にホテルを引き払ったことが書かれています。<私達はぞの翌日、ホテルを引き払って、山の手の家へ...

  4. 『評伝竹中郁』に描かれた関西学院「原田の森」

    『評伝竹中郁』に描かれた関西学院「原田の森」

    足立巻一著『評伝竹中郁その青春と詩の出発』の第五章関西学院に足立巻一氏と竹中郁氏が学ばれた「原田の森」の風景が詳しく書かれていました。<いま、関西学院は西宮市上ヶ原一番町の広大な校地に新制中学から大学院までをつらねる学園となっているが、竹中が在学していたころは、神戸東端の山手、上筒井通りにあり、「原田の森」といわれていた。敷地のすぐ南に原田神社があり、一帯に森が深く茂っていたからである。竹中...

  5. 村上春樹『風の歌を聴け』のお猿の公園のオリ撤去が決まる

    村上春樹『風の歌を聴け』のお猿の公園のオリ撤去が決まる

    本日の朝日新聞阪神版で、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に登場する「猿の檻のある公園」のモデルとされる打出公園のサルのオリについて、芦屋市は撤去を決めたことが報じられました。一方で、市はオリのフェンスの一部を再利用してモニュメントを制作し、オリの歴史や村上さんの作品との関わりを伝えていくと書かれており、少し救われました。ところで、小川洋子さんは村下春樹のファンでもあります。エッセイ集『博...

  6. 母にヴァイオリンを習った遠藤周作

    母にヴァイオリンを習った遠藤周作

    遠藤周作の母は、大連から帰国した後、1935~1948年にかけて小林聖心女子学院で音楽の教師を務められていました。教え子には須賀敦子さん、稲畑汀子さん、ロミ山田さんら著名な方々もおられますが、昨年、小林聖心女子学院で、「遠藤郁先生(遠藤周作氏のお母様)のレコード試聴会」が開催されたそうです。https://www.oby-sacred-heart.ed.jp/topics/2022/09/1...

  7. カズオ・イシグロが小説の書き方を学んだ「創作科」とは

    カズオ・イシグロが小説の書き方を学んだ「創作科」とは

    ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロは6歳で渡英、ケント大学で英文学と哲学を専攻し1978年卒業、ミュージシャンを目指し、ソーシャル・ワーカーとして働きながら執筆活動を始めたそうです。Ishiguro as singer-songwriter in his early twenties(1977)その後、1980年にイースト・アングリア大学大学院の創作学科に入学し、小説を書き始め、1989年...

  8. 谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』祇園白川へ

    谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』祇園白川へ

    京都祇園甲部の芸妓で、祇園新橋に営業していたお茶屋『大友』の女将だった人物が漱石や谷崎をこれほどまでに惹きつけたことは驚きでした。その女性とは磯田多佳、10代で芸妓となり、23歳で母の家業を継ぎ、夏目漱石をはじめ谷崎潤一郎、吉井勇など多くの文学者と交流し、「文学芸妓」「文芸芸妓」と呼ばれるようになりました。谷崎潤一郎は昭和7年に発表した『青春物語』で、明治45年に磯田多佳との出会いを述べてい...

  9. 小川洋子『ミーナの行進』と須賀敦子さんの実妹北村良子さんの御関係

    小川洋子『ミーナの行進』と須賀敦子さんの実妹北村良子さんの御関係

    小川洋子さんからお話を伺っていた時、須賀敦子さんのお話に及び、実妹の北村良子様のお話しになりました。北村良子様には、芦屋文学サロン「須賀敦子と芦屋・西宮」で稲畑汀子様と映像出演していただき大変お世話になりました。その時の北村様のお話で、昭和12年に父上が須賀商会東京支店へ転勤となり、夙川から麻布本村町に転居し、白金の聖心女子学院に編入されたとき、「あら関西弁なのね」と言われ、「おしゃべりなの...

  10. 村上春樹最初の短編集『中国行のスロウ・ボート』と小川洋子

    村上春樹最初の短編集『中国行のスロウ・ボート』と小川洋子

    西宮市在住の作家小川洋子さんの『博士の本棚』に「死の床に就いた時、枕元に置く七冊」というエッセイが収められています。(写真の背景は西宮市香櫨園浜)<ささやかな読書体験の中で出会った、親愛と尊敬の念を注いでやまない本。人生の傍らに、いつも変わらず黙って寄り添ってくれた本。死んだあとでも読み返したいと願う本。それらがほんの数冊、枕元にあれば、どれほど幸せだろうか。>小川さんの言葉には私も全く同...

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