"日本書紀" の検索結果 39 件

  1. 五十猛命(いそたけるのみこと)三兄妹

    五十猛命(いそたけるのみこと)三兄妹

    【日本書紀】一書(第四)五十猛は種をまいた素戔嗚尊が高天原から追放された時、その子、五十猛神を連れて新羅国に天下り、ソシモリの所にいた。「この地に我は居たいと思わない」と言って、埴土で船を造って東に渡り、出雲国のヒの川上にある鳥上峰(とりかみのたけ)に着いた。(略)五十猛神は天下りする時に樹の種を沢山持って天下ったが、韓地(からくに)には植えずに、ことごとく日本に持ち帰った。筑紫から始めて...

  2. 日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」@東京国立博物館 平成館

    日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」@東京国立博物館 平成館

    日曜日、東京国立博物館 平成館で、日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」を堪能した。電子書籍写真集 『光の象の島 スリランカ』(Amazon楽天kobo)電子書籍写真集『イタリアの光・イベリアの炎~La Luce Italiana,El Fuego Iberico~』(Kindle版・Amazon)映画『水の馬、火の兎、風の獅子』(YouTube)「しあわせの岸」(YouTube)『のら...

  3. 日本書紀花の窟神社御朱印

    日本書紀花の窟神社御朱印

    「日本最古の神社」と言われる?言っている?、「花の窟神社」はそのいわれは「日本書紀」にあります。日本の古代史、神話は「古事記」と「日本書紀」に記されたものが元となって居るようです。「古事記」は和銅5年(712)に編纂されたと言われ、「日本書紀」は養老4年(720)に完成したと言われます。「日本書紀」は今年で1500年になります。この二つの編纂された年はわずかに違うだけですが、記述には結構差が...

  4. 鵠は白鳥か、コウノトリか

    鵠は白鳥か、コウノトリか

    落語「御家安とその妹」を解読中なんだけど、噺のラストの鳥、前から、鶴じゃなくコウノトリじゃね?鶴は木に止まらないから。コウノトリを調べたら、以下の神社に伝説があった。久久比神社(こうのとり伝説)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B9%85%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BEちょっと待った!「日本書紀」の鵠(くぐい)は、他の...

  5. 16.聖明王の仏像献上と救援軍の依頼「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」

    16.聖明王の仏像献上と救援軍の依頼「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 16聖明王の仏像献上と救援軍の依頼欽明12年(551)百済の聖明王は新羅と組んで、任那と共に高麗を攻めた。漢城を得、兵を進めて平城を討ち、六郡を取り戻した。(百済が新羅といつの間にか同盟を結んでいるが、その事情は書かれていない)翌年、欽明13年(552)に百済、加羅、安羅などから我が国に使者が来て、「高麗と新羅が内通して、倭国の臣である我が百済と任那を滅ぼそうと...

  6. 14.半島の事ばかり書いているので、あきれて飛ばし読み「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    14.半島の事ばかり書いているので、あきれて飛ばし読み「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 14半島の事ばかり書いているので、あきれて飛ばし読み日本書紀の欽明紀を読んでいるが、ページをめくってもめくっても百済の聖明王のセリフが続く。あまりのページの多さに参ってしまう。スベクヒャンの人間関係図だが、右端のミョンノンという人物が聖明王となる。骨子は、聖明王は日本の天皇の「任那を復興せよ」という言葉を何度も諸国に伝えるが、肝心の任那や日本府は新羅に内通するよ...

  7. 13.任那復興会議「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    13.任那復興会議「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 13任那復興会議 日本の天皇は欽明、百済の王は聖明王、そして倭国は葛子の時代となっていた。朝鮮半島の南では新羅が領土を広げようとして、任那は不安定になっていた。(日本書紀を読んでいるのだが、いつまでも朝鮮半島の話が続く…)少し簡略化していこう。欽明2年(541年)4月、安羅、加羅、卒麻(そちま)、散半奚(さんはんげ)、多羅、斯二岐(しにき)、子他(した)の旱岐(...

  8. 12.大伴狭手彦の任那派遣金村失脚「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」

    12.大伴狭手彦の任那派遣金村失脚「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 12大伴狭手彦の任那派遣金村失脚 継体天皇も物部麁鹿火も死んでしまった。一人生き残っていたのが大伴金村だった。537年2月。新羅が任那に侵攻したため、宣化天皇は大伴金村大連に命じ、その子の磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を任那に派遣した。大伴磐は渡韓せず、筑紫に留まってその国の政を執って三韓に備えた。大伴狭手彦は海を渡り、任那を平定して百済を救った。宣化4年(53...

  9. 11.継体天皇の崩御と物部麁鹿火の薨去「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    11.継体天皇の崩御と物部麁鹿火の薨去「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 11継体天皇の崩御と物部麁鹿火の薨去毛野臣が召還された翌年、531年に継体天皇は崩御した。82歳だった。ただ、これも百済本紀からの引用だと日本書紀は記す。この年に天皇と太子と皇子が共に死んだ話が根拠だ。誰が死んだのか、該当者は本質的には分かっていない。しかも、次の安閑天皇の記録では崩御年が二年ずれている。ほかに534年説も紹介していて、日本書紀は混乱している。こ...

  10. 10.毛野臣の任那における失政「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    10.毛野臣の任那における失政「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」

    磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 10毛野臣の任那における失政 前回、御狩(みかり)という倭人が遠くからゲンコツで殴る真似をしたという事が、新羅に「上臣(大臣)を殺す意図」と解釈されたという、意味不明な展開になったが、このような些末な話が国史に載るのは、資料が日本の物でなかったからだろうと思われる。前後について一部だが、岩波注に、任那諸国の資料を使ったとする指摘もある。これは倭国が滅んで日本国が...

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