"源義経郎党" の検索結果 29 件

  1. 【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第二章/演劇部】 第二回

    【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第二章/演劇部】 第二回

    第二回意外に掘り出し物かもしれない 「とにかく俺の役割は分かった。しかし、真吾の『郎党』というのもまたしぶいね。どういった設定になるのかな」良太が聞いた。「うん、頼朝が戦っている中、その戦況を政子に知らせる役目で、もう一つ重要なのは大けがを負いながら頼朝の行方不明を知らせる役目。これが政子が自立するきっかけになる大切なシーンになる。政子との絡みも多くなるね」最後の言葉は薫子にとってはうれしい...

  2. 百田先生「きまぐれライブ」チンギスハン=義経だと思う

    百田先生「きまぐれライブ」チンギスハン=義経だと思う

    昼下がりのライブ、拝見しました。私の中では、完全にチンギスカン=義経。弁慶=西行。静御前も同行。モンゴル帝国は、殺戮によって周辺部族を支配していったが定説。異議🐜です。妄想力を働かすと、義経一族=厩戸皇子流=古代ギリシア人IQ1000のDNAの人たち。ギリシア➡︎孔子の弟子たち秦の迫害から逃れ日本列島へ。彼ら=大和民族は、先進の文化・科学を持っていたから、「征服」では...

  3. 義経・港北ニュータウンから奥州へ?!

    義経・港北ニュータウンから奥州へ?!

    歴史と素適なおつきあい番外編2022・9・1菅の指月橋義経が参詣した道を調査した。と思ったら、平泉への逃亡の道だったかも。菅の寿福寺に弁慶と義経が参詣した話がある。そこで港北ニュータウンから川崎市多摩区の菅にある寿福寺を参詣したというので、郎党を連れみんなでお参りしたことを想像しながら地図を作った。江田城の江田源三は実際にはこのときすでに京都で亡くなっている。茅ヶ崎城の多田行綱も遁走している...

  4. 亀井城址(麻生)に行ってきた

    亀井城址(麻生)に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2022・8・25川崎市麻生区月読神社城主は亀井六郎である。現在月読神社。常安寺あたりといわれる。亀井六郎は義経の郎党で頼朝への起請文を鎌倉に届けた人物とある。腰越状の前に起請文を何度も出したと「鎌倉手帳」にあった。起請文とは神様に誓ってという意味でウソを書けばバチがあたると鎌倉時代は思っていたらしい。その後平泉に同行し、衣川の戦いで義経が自刃したことから兄ととも...

  5. 源義経・後醍醐天皇・豊臣秀吉吉野へ 1/2

    源義経・後醍醐天皇・豊臣秀吉吉野へ 1/2

    近畿で桜の名所といえば一番に吉野山。ということで新緑の吉野山へ走った^^;そして吉野山と言えばここ金峯山寺(きんぷせんじ)前回hideさんと来たのがなんと12年前2010年の5月。国宝仁王門前にて。国宝本堂は高さ34mの豪壮な建造物で、木造古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさ。南北朝時代(1337~1392)京都を追われた後醍醐天皇が奈良県吉野山に入り、朝廷を開いたのが南朝。その南朝の仮...

  6. 蹴上義経地蔵(京都市左京区) / KEAGE YOSHITHUNE-JIZO ( SAKYO-KU,KYOTO CITY )

    蹴上義経地蔵(京都市左京区) / KEAGE YOSHITHUNE-JIZO ( SAKYO-KU,KYOTO CITY )

    蹴上インクラインのすぐ傍に立派な瓦屋根を乗せたお地蔵さんが安置されている。牛若丸こと源義経に由来する「蹴上義経地蔵」だ。鞍馬から奥州に向かう義経が、この近くの「日向大神宮」で道中の安全を祈願した際、その後、東海道の日ノ岡峠で平家の岡原与一ら、9人とトラブルになった。一行がすれ違いざま、水たまりの泥水を蹴り上げ、義経の衣装を汚したらしい。激高した義経は金売吉次が止めるのも聞かず9人を斬殺。殺め...

  7. 私的壇ノ浦の戦い考察その3源氏軍海上基地満珠・干珠

    私的壇ノ浦の戦い考察その3源氏軍海上基地満珠・干珠

    前回の続きです。彦島に、まとまった兵を陸揚げできる浜(今、気づきましたが、「浜」って、サンズイに兵と書くんですね。元々、兵を上陸させる地点という意味だったとか?)が、どの程度あったのかはわかりませんが、平家とすれば、屋島で、同様の条件下で、源義経に奇襲され、敗退した苦い記憶がありますし、ましてや、兵力が激減した現状では、到底、島に籠って迎え撃とうという気力はなかったでしょうね。(↑月夜の下関...

  8. 鎌倉殿の13人第20話「帰ってきた義経」~源義経の最期~

    鎌倉殿の13人第20話「帰ってきた義経」~源義経の最期~

    追われるように都落ちした源義経は、再起を図って九州に向かうも、途中暴風のために船が難破し、摂津に戻ってきました。その後は寺社などに匿われながら、吉野、鞍馬、多武峰、比叡山、興福寺などを転々としながら、伊勢、美濃を経て奥州に向かいました。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日条によると、義経は山伏に姿をやつし、妻子を連れて奥州に逃亡したと伝わります。しかし、九条兼実の日記『玉葉』で義経の奥...

  9. 古い井戸

    古い井戸

    弁慶鏡ヶ井戸上野・池之端の不忍通りから一本入った小道に境稲荷神社という小さな古いお社がある。そしてその脇には、思わず見逃してしまいそうな小さな井戸が残る。ここは、かつて、源義経が従者とともに奥州へ下る際、喉を潤すために武蔵坊弁慶が掘り当てたとされる井戸。その後、長らくは埋め戻されていたらしいが、昭和の戦争の前に掘り返されていて、東京大空襲のときには、多くの人の飢渇を救ったらしい。義経一行が奥...

  10. 鎌倉殿の13人第19話「果たせぬ凱旋」~日本第一之大天狗~

    鎌倉殿の13人第19話「果たせぬ凱旋」~日本第一之大天狗~

    兄の源頼朝より鎌倉入りを拒否され、所領もことごとく没収された源義経でしたが、改元して間もない文治元年(1185年)8月16日、頼朝の申請によって伊予守に任命されました。伊予守は播磨守と並ぶ最高ランクの受領で、河内源氏の先祖として崇拝されていた源頼義が就任した地位でもあったため、義経はこれ以上ない恩賞を受けたことになります。壇ノ浦の戦い後に頼朝より激しい怒りを買った義経でしたが、この時点では頼...

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