"北条政子" の検索結果 313 件

  1. 鎌倉殿の13人第36話「武士の鑑」~畠山重忠の乱~

    鎌倉殿の13人第36話「武士の鑑」~畠山重忠の乱~

    畠山重忠に謀反の疑いありとの讒訴を平賀朝雅より受けた北条時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意するも、息子の北条義時、時房からその軽挙を諫められ、いったんは思いとどまったかに見えました。しかし、それもつかの間、翌日の翌元久2年(1205年)6月22日、時政は計画を強行します。まずは由比ヶ浜で畠山重保が殺害されました。この日、重保は、稲毛重成より謀反人を討つべく由比ヶ浜に集まれとの招集を受け、...

  2. 【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第二章/演劇部】 第二回

    【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第二章/演劇部】 第二回

    第二回意外に掘り出し物かもしれない 「とにかく俺の役割は分かった。しかし、真吾の『郎党』というのもまたしぶいね。どういった設定になるのかな」良太が聞いた。「うん、頼朝が戦っている中、その戦況を政子に知らせる役目で、もう一つ重要なのは大けがを負いながら頼朝の行方不明を知らせる役目。これが政子が自立するきっかけになる大切なシーンになる。政子との絡みも多くなるね」最後の言葉は薫子にとってはうれしい...

  3. 浦賀城に行ってきた

    浦賀城に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2022・5・城主は北条氏である。房州の里見水軍がたびたび攻撃し、三崎城の出城となった。叶神社の奥の院がある明神山に本城があった。永正15年(1518)北条早雲は三浦道寸を荒井城で滅亡させ、北条水軍の根拠地を三崎城においた。里見軍は城ヶ島に陣を置き、北条軍と戦ったが房総に敗退した。そして浦賀城が造られたという。秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡するが、浦賀海賊衆は、城...

  4. 鎌倉殿の13人第35話「苦い盃」~北条と畠山の対立~

    鎌倉殿の13人第35話「苦い盃」~北条と畠山の対立~

    源実朝の結婚相手を迎えにいくため上洛していた北条政範(北条時政と牧の方(ドラマではりく)の息子)が急逝するという悲劇に見舞われたものの、御台所の鎌倉下向の準備はつつがなく進みました。『吾妻鏡』によると、元久元年(1204年)11月20日、平賀朝雅の屋敷において酒宴が催されました。ところが、この宴席で朝雅と畠山重保とのあいだで口論があったといいます。その場は周囲の者がとりなしたため大事にはいた...

  5. 【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第一章/吹奏楽部】 第七回

    【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第一章/吹奏楽部】 第七回

    第七回なぜ泣くの? その直後から店は立て込み始めた。客は撮影所の関係者がほとんどだ。臨太郎も帰ってきたらすぐに出るというフル回転状態だった。何回目かの出前を終えて店に戻ると、カウンター席の隅に女の子が座っていた。「ただいまー」と言ってから女の子の近くに寄って、「いらっしゃい、五十嵐さん。待ちました?」と言うと、客の一人が「臨太郎。店でデートの待ち合わせかよ。ムードねえぞ」と言った。「母さん、...

  6. 【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第一章/吹奏楽部】 第五回

    【その後の『新宿スイング』そして文化祭へ】 【第一章/吹奏楽部】 第五回

    第五回不良が演劇をやっちゃだめなの? 「それから、五十嵐に演劇部の練習場所に来てもらって、部員の気持ちを確認してもらってから、洋子と五十嵐は顧問のところに行ったんだ」臨太郎は黙って聞いていたが、静かに怒りの炎を燃やしていた。電話の向こうから、「おーい、聞こえてるかよ。何だか、激しい鼻息だけが聞こえるが」と良太が言った。「ん?ああ、聞こえてる。それでどうなったんだ?」 ◆◇ 洋子と五十嵐と山下...

  7. 鎌倉殿の13人第34話「理想の結婚」~時政の専横と実朝の縁談~

    鎌倉殿の13人第34話「理想の結婚」~時政の専横と実朝の縁談~

    源実朝が三代鎌倉殿となり、祖父の北条時政が侍所別当と執権に就任すると、ここから時政の専横がはじまります。あくまで幼い将軍の代理という名目ではあるものの、自身の署名と花押を記した公式文書を次々と発給。頼朝、頼家時代には幕府の要職に任じられることのなかった時政でしたが、ライバルの比企が滅び、執権という要職に就いたことで、タガが外れたように権力集中に走ります。ドラマのように、裁判の判決権を傘に賄賂...

  8. 【その後の『新宿スイング』森山高校吹奏楽部】 【第五章/丈二と絹】 第六回

    【その後の『新宿スイング』森山高校吹奏楽部】 【第五章/丈二と絹】 第六回

    第六回私が北条政子です 「それじゃ、僕から一つだけ、いいですか?」「いいよ」「戦争が近付き敵性外国人の丈二さんは帰国しなければならなかった。丈二さんは誠治さんが復員して絹さんやりんさんたちが暮らしている大船の家に帰った。誠治さんは刑事に戻ることはしないで、仕事を探しに横須賀に行った。アメリカの進駐軍基地に仕事があると聞いたから。基地の面接室に入ると白人の面接官と一緒に東洋人が入ってきた」「丈...

  9. 鎌倉殿の13人第33話「修善寺」~時政の執権就任と頼家の最期~

    鎌倉殿の13人第33話「修善寺」~時政の執権就任と頼家の最期~

    源頼家が伊豆国修禅寺に送られたあと、鎌倉幕府の実権は北条時政が掌握しました。三代鎌倉殿となった源実朝は、建仁3年(1203年)9月10日、北条政子の御所から時政の名越邸に移ります。実朝は12歳。まだまだ少年だった実朝は、時政と牧の方(ドラマではりく)夫婦によって扶育されることになりました。ところが、ドラマでは描かれていませんが、わずか5日後の9月15日、阿波局(ドラマでは実依)が牧の方を母親...

  10. 鎌倉殿の13人第32話「災いの種」~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~

    鎌倉殿の13人第32話「災いの種」~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~

    比企の乱によって幕府内の権勢を手中にしたかに思えた北条でしたが、想定外の事態が発生します。危篤状態にあった源頼家が、奇跡的に回復したんですね。比企一族の滅亡、千幡の鎌倉殿擁立は、すべて頼家が亡くなるという前提で行われたものであり、頼家の蘇生に北条時政をはじめとする北条派がうろたえたのは想像に難しくありません。 『吾妻鏡』によると、頼家が事態を知ったのは、比企一族の壊滅から3日後の建仁3年(1...

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