"戊辰戦争" の検索結果 29 件

  1. 容保公の歌碑が所在不明!

    容保公の歌碑が所在不明!

    容保公の歌碑が所在不明!2023年3月16日福島民報新聞残されるはずだった容保公の歌碑以前ご報告いたしましたように、市は、攬勝亭の石碑類の内、源容保公御詠歌碑九華堂東三句碑の二点は緑地に残すと明言しておりました。昨年秋、攬勝亭跡地の現状確認をして参りましたが、緑地(とは名ばかりですが)に梱包された石が二個置かれてあり、一応市も仕事は進めていると安心しておりました。赤丸が、容保公の歌碑だと信じ...

  2. 北越戊辰戦争 長岡藩の戦い新潟・長野歴史ドライブ 3/4

    北越戊辰戦争 長岡藩の戦い新潟・長野歴史ドライブ 3/4

    鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は東へと戦場を移し、北越にもその戦火は広がっていった。新政府軍(西軍)に恭順する藩がある一方、反旗をひるがえす藩もあった。そんな中、長岡藩は家老河合継之助の信念で中立を貫いていたのだが、話し合いは不調に終わり、継之助(長岡藩)は勝ち目のない戦いへと突き進んでいった。小千谷談判中立を守ってきた長岡藩家老河合継之助はその旨理解してもらうべく、西軍の本陣が置かれた小...

  3. 北越戊辰戦争 長岡藩の戦い新潟・長野歴史ドライブ 3/4

    北越戊辰戦争 長岡藩の戦い新潟・長野歴史ドライブ 3/4

    北越戊辰戦争、長岡藩の戦い。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は東へと戦場を移し、北越にもその戦火は広がっていった。新政府軍(西軍)に恭順する藩がある一方、反旗をひるがえす藩もあった。そんな中、長岡藩は家老河合継之助の信念で中立を貫いていたのだが、話し合いは不調に終わり、継之助(長岡藩)は勝ち目のない戦いへと突き進んでいった。 小千谷談判中立を守ってきた長岡藩家老河合継之助はその旨理解しても...

  4. 2022年戊辰殉難者秋季祭典

    2022年戊辰殉難者秋季祭典

    9月23日、「2022年戊辰殉難者秋季祭典」を執り行いました。先ず最初は、長命寺です。早めに着いたので、戦死墓をお参りしました。

  5. 2021年戊辰殉難者秋季祭典

    2021年戊辰殉難者秋季祭典

    9月23日、「2021年戊辰殉難者秋季祭典」を執り行いました。今年もコロナウィルス感染防止のため、会津弔霊義会の役員のみでの開催です。9時、長命寺で法要を行いました。「戦死墓」は、今日も静かです。時がゆるやかに過ぎていきます。

  6. 2021年戊辰殉難者春季祭典

    2021年戊辰殉難者春季祭典

    2021年戊辰殉難者春季祭典は、コロナウィルス感染防止のため、会津弔霊義会の役員のみで4月23日開催されました。午前9時より、長命寺での慰霊です。例年ですと満開の戦死墓の桜も、今年はもう散ってしまいました。1週間くらい早いでしょうか。

  7. 白河の会津銷魂碑を訪ねる

    白河の会津銷魂碑を訪ねる

    戊辰戦争激戦地の白河市稲荷山ある会津藩士の銷魂碑をやっと訪ねられました。旧奥羽街道脇にひっそりと立っています。1868年5月1日の激戦で約700名の会津藩士が戦死しました。

  8. 鶴ヶ岡城址に行ってきた

    鶴ヶ岡城址に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2019・4・11鶴岡城址公園城主は鎌倉時代大泉氏で、地頭だった。室町時代は武藤長守で、大宝城といわれた。武藤義氏のころ全盛となり、義氏は家臣が最上氏と手を組んだため、自害に追い込まれた。その後上杉氏、最上氏との争奪戦になったが、上杉景勝が勝利し、尾浦城の支城となった。その後、検地で一揆が起こり、落城、その後直江兼続は越後兵を常駐させる。関ヶ原の戦いのあと、最上義...

  9. 攬勝亭その後

    攬勝亭その後

    皆様のご支援をいただきながらの攬勝亭保存運動でしたが、残念ながら会津若松市長の理解を得られぬまま、破壊、分譲地工事が進んでいます。といっても大きな庭木の特殊伐採など、大変な工事のようです。1月後半に、市文化課から「緑地には容保公の歌碑 と享保19年の九華堂東三句碑のみ残す」との連絡が市会議員と通じて突然ありました。急遽、石碑や石造物の救出活動が始まりました。お茶室前の攬勝亭碑。見事な字ですが...

  10. 2020年戊辰殉難者秋季祭典

    2020年戊辰殉難者秋季祭典

    コロナウィルスのため、春に続き、本年の戊辰殉難者秋季祭典は会津弔霊義会の役員のみで開催しました。午前9時より、長命寺本堂で厳粛に執り行いました。コロナウィルス感染防止のため、ソーシャル・ディスタンスを保っての着座です。

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