"揚屋、置屋" の検索結果 6 件

  1. 新居、芸妓置屋小松楼

    新居、芸妓置屋小松楼

    傀儡(くぐつ)は日本の遊女の原型の一つとみる事ができます。 平安時代に京と東国を結ぶ東山道の宿駅には、宿泊者に売色する傀儡女(くぐつめ)がいました。流浪の民であり、人形遣いであり、芸能集団でもあり、売色もした傀儡の拠点の一つであった、橋本宿の游君に建久六(1195)年三月、源頼朝が「橋本の君に何かを渡すべき」というと梶原平三景時が「ただ杣山のくれであらばや」とつけたという話があります。 この...

  2. 岐阜県養老町、高田の花街

    岐阜県養老町、高田の花街

    岐阜県養老町の花街については、養老町図書館にて、町史他を調べましたが全く実態がつかめず、受付の方たちにお聞きしたら、図書館のホームページのリンクの『タキゾウくんの養老ノート』に記述があるとの事でしたので、参照させて頂きました。養老町では昭和30~40年に花柳会が賑わったとの事でしたが、創立年代とかは分かりません、文面の内容からか考えて戦前から有ったとみていいでしょう。置屋は、玉野屋(たまのや...

  3. 送り込みの遊廓に関する一考察

    送り込みの遊廓に関する一考察

    ]居稼ぎ・・・芸娼妓が抱へ主の家で客を取って稼ぐ事。送り込み制・・・関西方面に多く、置屋は置屋、揚屋は揚屋と、各専門的に営業をして居る所で、娼妓は置屋から揚屋へ送りこまれる。『全国遊廓案内』によると、関東より北で居稼ぎでないのは千葉県銚子町松岸遊廓ただ一か所で「遊興制度は古い襲を踏んで全部引手茶屋から送り込む事になっている。」と、直接置屋からではないものの、引手茶屋から娼妓が送り込まれており...

  4. 犬山の花街

    犬山の花街

    以前このブログで花街・遊廓の類型を求めました。それで行くと、犬山にあった花街は観光地型に分類できると思います。京都でいうと宇治が観光地型のはずで、旦那衆など、当初京都から芸妓をつれ遠出で遊びましたが、これは可なりの出費になるので、便宜上宇治に検番を立ち上げた人がいました。 観光地型は花街にのみごく僅か存在し、遊郭にはないと考えています。 『犬山市史通史編下』によると、犬山花街は、何時から有っ...

  5. 足助の花街

    足助の花街

    足助花街の起源は分かりませんものの、大正十一年ごろには、宿屋・飲料店・置屋を含めての揚屋数は21軒、芸妓数31人とのことです。足助が料飲歓楽型へ移行したのが日露戦争以後なので、明治末ぐらいに出来たものと思います。 上記揚屋に芸妓置屋を含めていたので、置屋がお茶屋を兼ねていたようです。大きな料理屋として三島屋、錦荘、鈴々屋を上げており、現在も三島屋、寿々屋は建物として残ります。 足助というと東...

  6. 岩崎峰子祇園

    岩崎峰子祇園

    岩崎峰子・・・五歳で祇園甲部の置屋岩崎に入り、六歳の六月六日に井上流家元の四世井上八千代四畝の直弟子として入門、十五歳で店出をして祇園甲部の舞妓に、二十一歳に襟替えをして芸妓に、そして昭和五十五年、二十九歳で引退をしました。この間六年売り上げナンバーワンとしてお座敷や舞台を勤めました。その座敷にお見えになった方にアメリカのフォード大統領、キッシンジャー国務長官、イギリスのエリザベス女王、エジ...

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