"於大" の検索結果 7 件

  1. 家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12)

    家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12)

    家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12) 「どうする家康」第3回でしばしば登場したのが水野信元です。そこで、今日は水野信元について書いていきます。 「寛政重修諸家譜」によると、水野氏の家祖は重房といい、「尾張国知多郡英比(あくひ)郷小河(小川又は緒川とも:現在の愛知県知多郡東浦町緒川)に住し、小河を称号とす」と書いてあり、もともと小河と言っていたようです。その後、春日井郡...

  2. 徳川家康の両親は、兄と妹の関係か(?)(「どうする家康」10)

    徳川家康の両親は、兄と妹の関係か(?)(「どうする家康」10)

    徳川家康の両親は、兄と妹の関係か(?)(「どうする家康」10) 今日は、徳川家康の両親松平広忠と於大に関するお話について書きます。松平広忠は、松平家7代目岡崎城松平清康の嫡子として大永6年(1526)に生れました。母は青木貞景の娘と伝わっています。10歳のときに父清康が、尾張守山へ出陣中に家臣の阿部正豊に殺害された「守山崩れ」が起きたため、大叔父松平信定に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流...

  3. 家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷

    家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷

    今回のテーマは、徳川家康の母 於大(おだい)と伯父 水野信正の悲運についてです。於大の父水野忠政は、東浦の緒川城を中心として知多半島北部を支配していましたが、三河の刈谷にも進出し新城(刈谷城)を築きました。忠政は三河で勢力を誇っていた松平氏と友好を保つため、於大を松平広忠(家康の父)に嫁がせました。於大は岡崎城で家康を出産しましたが、ほどなく父忠政が病死。於大の兄水野信元が家督を継ぐと、松平...

  4. 麒麟がくる第20話「家康への文」~神君大高城兵糧入れ~

    麒麟がくる第20話「家康への文」~神君大高城兵糧入れ~

    物語はいよいよ桶狭間の戦いへ・・・と思いきや、合戦前の話でした。引っ張りますねぇ。今回はほとんどが創作の回だったので、何を書こうか迷ったのですが、タイトルから言えば、やはり松平元康(のちの徳川家康)の話でしょうか。もっとも、織田信長が今川方の人質となっていた家康を寝返らすための調略を、元康の実母・於大の方と叔父の水野信元に依頼するという話は、もちろんドラマの創作ですし、ましてや、その策を講じ...

  5. 緒川城下町の散策マップができました!

    緒川城下町の散策マップができました!

    初代緒川城主水野貞守が1475年に乾坤院を創建、その後130年間は水野氏の居城であった緒川城。於大の方が生まれた緒川城、1601年緒川は水野分長の時に10.000石の緒川藩が誕生し、1606年までの短い期間ですが城下町でした。そんな町のあちこちに当時から続く歴史を垣間見ることが出来ます。このマップは、そんな歴史ある町の散策にみなさんでご利用いただければと思います。

  6. 刈谷歴史散歩

    刈谷歴史散歩

    刈谷市歴史博物館は、もと刈谷城があった亀城公園のすぐ近くに建設されました。刈谷城は勝成生誕の地。かつては海に面した海城で、水に浮かんでいる亀のように見えたことから、別名を「亀城」と呼ばれます。明治に取り壊しされてしまい、現在、遺構は残っていませんが、きれいな公園になっていて、お花見など市民の憩いの場となっています。土塁のあとも少し見ることができます。お池には亀も!そして、この亀城公園から徒歩...

  7. 満開の八重桜「於大のみち」

    満開の八重桜「於大のみち」

    13日に於大まつりは終わりましたが、19日現在の於大のみちでは八重桜が満開を迎えています。これが祭りの時と重なっていればよかったのに....と誰しも思います。緩やかに曲がり流れる明徳寺川では、鯉が恋の季節を迎えてバシャバシャとはね、渡る風が頬に優しいです。そんな於大のみちは数の多い「フゲンゾウ」「カンザン」「ウコン」をはじめ、花びらが300枚以上もあるキクザクラやイチヨウ、サクヤヒメ、ヨウキ...

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