"築山殿" の検索結果 5 件

  1. 家康正室「築山殿」の名前の由来(「どうする家康」28)

    家康正室「築山殿」の名前の由来(「どうする家康」28)

    家康正室「築山殿」の名前の由来(「どうする家康」28) 「どうする家康」第10回で、於大が、「築山に住んでいるのだから築山殿と呼ばなくてはなりませんね」と話しかけて、瀬名が築山殿と呼ばれるようになりました。下写真は、総持寺に掲示されていた「築山殿」です。徳川家康の正室は、一般的に「瀬名」と呼ばれていますし、「どうする家康」でも「瀬名」ですが、正室の名前がどのような名前であったかを示す史料はあ...

  2. どうする家康第7話「わしの家」~家康改名と三河一向一揆勃発~

    どうする家康第7話「わしの家」~家康改名と三河一向一揆勃発~

    駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うまでもなく今川義元の偏諱を与えられたものであり、今川から独立した今となっては、元康という名乗りは不都合だったんですね。今川とのしがらみを断つための改名だったと考えられています。 では、なぜ「家康」という名乗りだったのでしょう。家康の「康」は、祖...

  3. 瀬名の人質交換はあったのか?(「どうする家康」20)

    瀬名の人質交換はあったのか?(「どうする家康」20)

    瀬名と子供たちの人質交換はあったのか?(「どうする家康」20) 「どうする家康」第6回では、瀬名と子供たちを鵜殿長照の子供たちとの人質交換で奪還するというお話でした。この瀬名と竹千代(後の信康)と亀姫を、上之郷城攻めで生捕りにした鵜殿長照の子供氏長と氏次との人質交換で奪還するということは、従来の通説でした。最近でも本多隆成氏は『定本徳川家康』の中で「元康はまず西郡上之郷城を攻め、永禄5年11...

  4. どうする家康第7話「続・瀬名奪還作戦」~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~

    どうする家康第7話「続・瀬名奪還作戦」~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~

    前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説に基づいた話でした。 永禄5年(1562年)2月4日、元康は三河上ノ郷城を攻めました。上ノ郷城は今川の重臣・鵜殿長照の居城ですが、今川を離反した元康が三河全域に勢力を伸ばし始めたため、同城は松平勢力圏内で孤立しつつありました。西三河を平定し、...

  5. どうする家康第1話「どうする桶狭間」~今川家人質時代と神君大高城兵糧入れ~

    どうする家康第1話「どうする桶狭間」~今川家人質時代と神君大高城兵糧入れ~

    どうするかは誰もが知っている徳川家康の物語が始まりました。長くて濃い家康の生涯ですから、どこを描いてどこを省くかが難しいところだと思いますが、第1話にしていきなり桶狭間の戦いまで進んじゃいましたね。ちょっと意外でしたが、でも、わたしはこれで良かったと思いますよ。家康の人格形成においては今川家での人質生活が重要だったと思いますが、家康の「どうする?」人生がはじまるのは、まさに桶狭間からと言って...

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