"高子" の検索結果 5 件

  1. 熊阪台州氏(その2)55~散策の帰り道②

    熊阪台州氏(その2)55~散策の帰り道②

    案内文の中に以下のように、「阿武の松原」は熊阪氏によって広く知られるようになったらしいことが記される。江戸時代の後期この地区の南に位置する「高子村」(現保原町)で儒学者・詩人としてこの地に多くの足跡を残した「熊坂三代(覇陵・台州・盤谷)」によって「阿武の松原」が広く知られるようになったと言われる。それで、熊阪氏の書籍情報を確認すると、「信夫歌」の「信達二郡輿地略図」には、この「阿武の松原」が...

  2. 熊阪台州氏(その2)54~散策の帰り道

    熊阪台州氏(その2)54~散策の帰り道

    高子山からの帰り道、この「阿武の松原」碑の前の道に出たのは意図したことではない。偶然だ。前回、この「阿武の松原碑」を訪ねて整理したのは2009年だ。当時から、この碑は町指定文化財だったはずだが、多分案内板はなかったと思う。近所の人に何度か尋ねてようやくたどり着いた記憶がある。https://kazenoshin.exblog.jp/8799433/今回もここに立ち寄るつもりなかったのだが、そ...

  3. 熊阪台州氏(その2)53~谷文晁氏との交遊④

    熊阪台州氏(その2)53~谷文晁氏との交遊④

    「熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②」で整理したように、寛政6年(1794)夏、文晁氏は、瀬上駅を通りながらも、自ら熊阪家白雲館に立ち寄ることはなかったということだ。実は、この時以外にもう一回、ひょっとすると高子にも立ち寄ったかもしれないという憶測があったようだ。それは、前回整理の定信公が文晁氏の「真景図」を描くことのできる画力を認めることともかかわっているようだ。文晁氏は、若い日...

  4. 熊阪台州氏(その2)52~谷文晁氏との交遊③

    熊阪台州氏(その2)52~谷文晁氏との交遊③

    正直に言えば、先の整理では、心のどこかで文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵は、地元の画家周俊・淑翰が描いた二十境図の模写ということをマイナスイメージでとらえているところもあった。しかし、文晁氏と定信公とのかかわりを確認してみて、その模写を通して真景を見抜く力の持ち主であることが分かった。文晁氏は元々「真景図」を描くことのできる画力の持ち主だったようだ。その力が「集古十種」での模写などで更に磨...

  5. 熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②

    熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②

    今までは、谷文晁氏については「熊阪台州氏(その2)46~高子山の『高子二十境』⑦」で確認したように、「江戸文人画壇の重鎮」との捉えで整理してきた。この時に、さらりと「卓越した画技とともに学問もあって、松平定信や田安家の後援を得て」いることにもふれておいた。地域を散策する者の視点として、松平定信公とのかかわりという視点を加えての整理もしておきたいと思うのだ。先に、散策とのかかわりで松平定信公に...

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