"家康のお墓" の検索結果 524 件

  1. 大高城に行ってきた

    大高城に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2城主は南北朝の頃は池田頼忠、永正の頃は花井備中守、水野為善。息子の忠守と言われる。織田氏支配下の頃も水野氏だったが、鳴海城主・山口教継により今川氏支配となった。信長は鳴海城と大高城を遮断するため丸根砦と鷲津砦を築いた。家康行軍路桶狭間古戦場保存会より拝借桶狭間の戦いの前に今川家臣・鵜殿長照が守備についた。そして松平元康(家康)が兵糧を届け、長照に代...

  2. 鷲津砦に行ってきた

    鷲津砦に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2大高城址から撮影。左側の山がそうだと思う。城主は織田信長である。当時は秀俊と飯尾定宗・尚清父子が置かれていた。織田信長の父が亡くなり、弟との確執から今川義元が好機とみて尾張に侵攻してきた。鳴海城と大高城が今川方になったので往来を防ぐため信長が砦を築いた。桶狭間の戦いの前に今川家臣・朝比奈泰朝に攻められ多くの死傷者を出して砦は陥落した。

  3. 桶狭間古戦場に行ってきた

    桶狭間古戦場に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2織田信長の父が亡くなり、弟信勝との内紛でごたついた織田氏を見てチャンス到来と今川氏が侵攻したことから戦いが始まった。そして奇襲によりあっけなく今川義元が討たれた。公園は今川義元が討たれた場所あたりに造ったという。信長、義元、家康の行軍が体験できる。この中に公園内でもできるジオラマがある。そこから拝借した行軍路信長行軍路今川義元行軍路徳川家康行軍路

  4. 大給城に行ってきた

    大給城に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2城主は大給松平氏の松平乗元である。大給松平氏は大給を寮したことから始まり乗元はその祖である。明治まで続いた大名や旗本である。大給松平氏は周囲の松平一族とたびたび抗争を繰り返しており、大給城は1575年(天正3年)に滝脇松平家の襲撃を受けた際に放棄された。武田の侵攻に備えた城で家康が関東に入府した時廃城となった。多数の巨石があり、ダムを作って水掘りと...

  5. 瀬名の人質交換はあったのか?(「どうする家康」20)

    瀬名の人質交換はあったのか?(「どうする家康」20)

    瀬名と子供たちの人質交換はあったのか?(「どうする家康」20) 「どうする家康」第6回では、瀬名と子供たちを鵜殿長照の子供たちとの人質交換で奪還するというお話でした。この瀬名と竹千代(後の信康)と亀姫を、上之郷城攻めで生捕りにした鵜殿長照の子供氏長と氏次との人質交換で奪還するということは、従来の通説でした。最近でも本多隆成氏は『定本徳川家康』の中で「元康はまず西郡上之郷城を攻め、永禄5年11...

  6. 「どうする家康」岡崎大河ドラマ館

    「どうする家康」岡崎大河ドラマ館

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2ほとんど写真撮影禁止で、気づいたら山田くんの写真しかなかった・・・・一緒にパネルと写真撮影できて楽しかった!

  7. 岡崎城址に行ってきた

    岡崎城址に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・2・2岡崎城城主は三河国仁木氏の守護代西郷稠頼(つぎより)。明大寺付近に最初に平岩城(旧岡崎城)があり、東岡崎駅の家康像あたりにあったという。明大寺古屋敷という説明板がある。この場所が最初に岡崎と言われる場所だった。次は3代目西郷信貞である。居館は明大寺古屋敷である。砦を龍頭山の段丘の先端に築城した。龍頭山には乙女に姿を変えた龍神伝説が伝わる。(岡崎のむ...

  8. どうする家康第7話「続・瀬名奪還作戦」~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~

    どうする家康第7話「続・瀬名奪還作戦」~元康妻子と鵜殿兄弟の人質交換~

    前回に引き続き、駿府で人質状態となっている松平元康(のちの徳川家康)の妻子の奪還劇の回でしたね。前話はほとんどフィクションの回でしたか、今話は史実、通説に基づいた話でした。 永禄5年(1562年)2月4日、元康は三河上ノ郷城を攻めました。上ノ郷城は今川の重臣・鵜殿長照の居城ですが、今川を離反した元康が三河全域に勢力を伸ばし始めたため、同城は松平勢力圏内で孤立しつつありました。西三河を平定し、...

  9. 上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19)

    上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19)

    上之郷城での人質生捕りに忍者が活躍(「どうする家康」19) 「どうする家康」第6回では、徳川家康(当時は松平元康)が上之郷城を攻める戦いの中で、本多正信と服部半蔵が、甲賀忍者伴与七郎の助けをかりて城内に忍び込んで、鵜殿長照の子供二人氏長と氏次を生け捕りしました。これにより瀬名と子供たちとの人質交換ができることになりました。この話は創作だと思った人もいると思いますが、これは完全な創作ではないと...

  10. 【仕事観】『徳川家康』の格言から学ぶ!現代の組織が長く栄えるための考え方。

    【仕事観】『徳川家康』の格言から学ぶ!現代の組織が長く栄えるための考え方。

    こんにちは。かぴぱらです。前回は、織田信長の格言をご紹介させていただきました戦国の世で知力、武力を持つ豪将や武将を束ねて名前を残した豪傑の信条や生き様は現代社会のビジネスの場でも注目されています。今回は、『最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。』この言葉を残したとされている戦国時代の武将、徳川家康をご紹介します。織田信長同様、徳川家康も歴史書だけでなく、数多くのビジネス書籍や小説...

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