"野上忠興" の検索結果 24 件

  1. 明光義塾豊橋青陵中前教室

    明光義塾豊橋青陵中前教室

    豊橋市の個別指導学習塾明光義塾豊橋青陵中前教室を紹介!明光義塾は、元祖・“個別指導”塾。 長年にわたり、多くの生徒たちの成績アップや苦手克服、 志望校合格を実現させてる!青陵中前教室は、地域密着型の教室として各学校の授業の進 捗状況もしっかりと把握し、教科書の進み具合に合わせて学習できるのは嬉しいね!「小学生」「中学生」「高校生」の全教科に対応してて、教室長や講師が、生徒たち一人ひとりの目指...

  2. お宝本『能楽全書』全七巻と夏目漱石の謡の腕前は?

    お宝本『能楽全書』全七巻と夏目漱石の謡の腕前は?

    私のお宝本である『能楽全書』全七巻(東京創元社) の紹介である。装丁がものすごく凝っている。表紙は能装束からとったもの。 観世宗家に蔵してある長絹文様で、紺地がかった萌黄色(もえぎいろ)。 『能楽全書』の題字は支那の古文から選定されたという懲りよう。 箱は撫子(なでしこ)の菱(ひし)ツナギ。 これは単狩衣(かりぎぬ)の文様であずきいろ。見返しは柚色(ゆずいろ)。 見返しの次に掲げたのは、歴代...

  3. 丹後田辺城跡を歩く。その1<本丸外周>

    丹後田辺城跡を歩く。その1<本丸外周>

    旧海軍ゆかりの地として知られる京都府北部の舞鶴市に、かつて田辺城がありました。天正6年(1579年)、織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)と明智光秀が丹後国を攻略し、一色氏を滅ぼしました。その功によって光秀には丹波国が与えられ、藤孝に丹後国が与えられますが、当初、藤孝は宮津城を居城としましたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、移り住...

  4. 聖マリア大聖堂カトリック玉造教会<細川ガラシャ像・高山右近像>~南蛮寺跡

    聖マリア大聖堂カトリック玉造教会<細川ガラシャ像・高山右近像>~南蛮寺跡

    細川ガラシャの終焉の地である「越中井細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」の石碑から150mほど南に、聖マリア大聖堂カトリック玉造教会があります。ここも、かつては細川氏の屋敷の敷地内であったことから、細川ガラシャ像があります。 こちらが聖マリア大聖堂カトリック玉造教会。立派な建物ですね。聖マリア大聖堂カトリック玉造教会の創立は明治27年(1894年)で、当時は「聖アグネス聖堂」という名前だったそうで...

  5. 細川ガラシャ終焉の地<越中井(細川忠興夫人秀林院殉節之遺址)>

    細川ガラシャ終焉の地<越中井(細川忠興夫人秀林院殉節之遺址)>

    大阪城の真南、現在の南外堀から400mほど南に、「越中井細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」と刻まれた石碑が建てられています。細川忠興夫人とは言うまでもなく、戦国の世の悲劇の女性・細川ガラシャのことです。関ヶ原の戦い直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)、ガラシャはこの地で壮絶な最期を遂げました。 大阪城(往時は大坂城)の南には、かつて細川越中守忠興の大坂屋敷がありました。「越中井」とは...

  6. 細川ガラシャ隠棲地「味土野」その2<女城跡・後編>

    細川ガラシャ隠棲地「味土野」その2<女城跡・後編>

    「その1」のつづきです。細川ガラシャの隠棲地と伝わる味土野女城跡にやってきました。 明智光秀の三女(もしくは次女)・たま(珠、玉、玉子)として、永禄6年(1563年)に生まれたガラシャは、天正6年(1578年)、15歳のときに織田信長のすすめで、父・光秀の盟友・細川藤孝(幽斎)の嫡男・細川忠興のもとに輿入れしました。新婚の2年間は乙訓の勝龍寺城で過ごし、天正8年(1580年)、丹後一国を与え...

  7. 天橋立を望む丹後八幡山城跡。その3<主郭~帯曲輪>

    天橋立を望む丹後八幡山城跡。その3<主郭~帯曲輪>

    「その2」のつづきです。丹後八幡山城主郭下に到着。いきなり目の前に石垣の遺構が飛び込んできました。 石垣は野面積み。 見事に残っていますね。 苔むした感じがいい。古城ファンにはたまらないショットです。 丹後八幡山城の築城時期については定かではなく、『丹州三家物語』によると、一色五郎の居城だったと記されています。丹後国守護の一色氏は、明徳2年(1391年)の明徳の乱で戦功を挙げた一色満範を初...

  8. 丹後宮津城跡を歩く。その4<細川ガラシャ像>

    丹後宮津城跡を歩く。その4<細川ガラシャ像>

    「その3」で紹介した旧大村邸長屋門のある大手川ふれあい広場に、戦国の世の悲劇の女性・細川ガラシャ像があります。その向こうには、カトリック宮津教会がみえます。 ガラシャは明智光秀の三女(もしくは次女)として、永禄6年(1563年)に越前国で生まれました。名は、たま(珠、玉、玉子)。天正6年(1578年)、15歳のときに織田信長のすすめで、父・光秀の盟友・細川藤孝(幽斎)の嫡男・細川忠興のもとに...

  9. 丹後宮津城跡を歩く。その2<一色義清自刃の処(一色稲荷神社)>

    丹後宮津城跡を歩く。その2<一色義清自刃の処(一色稲荷神社)>

    宮津城跡の縄張り内を歩いていると、玉垣に囲われた小さな神社の中に、「一色義清自刃の処」と書かれた看板が目に入りました。一色義清とは、いかなる人物でしょうか? 一色氏といえば、細川氏が丹後を攻略する以前、このあたりを支配していた守護大名ですが、一色義清とは、その当主のことでしょうか?すぐさまスマホでググってみたのですが、Wikipediaの情報では、細川氏の丹後攻めのときとは違う時代の人物のよ...

  10. 丹後一色氏の最後の砦、弓木城跡を歩く。その2

    丹後一色氏の最後の砦、弓木城跡を歩く。その2

    「その1」のつづきです。下の写真は弓木城跡主郭南側の巨大竪堀。 巨大過ぎて圧倒されます。 主郭南側の曲輪に降りてきました。 主郭南側一段下曲輪から見上げた主郭切岸です。 そして、さっきの巨大竪堀を下から見あげてみました。 圧巻です。切り通し虎口のようにも見えますが、斜面が急すぎてとても登れません。 逆に、南側を見下ろします。急斜面を数十メートル竪堀が続いています。 続いて、西側下段曲輪に降り...

1 - 10 / 総件数:24 件