"三宅勝久" の検索結果 151 件
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ニット展
12月1日の昨日から始まった三宅幹子さんのニット展の初日、一番乗りで観に行った。なにしろ2年に一度の展覧会、楽しみに待っていたのだ。今回は行ったことのない初めてのArt space 路ゞ(アートスペースジジ)というギャラリーの2階。古い建物を活かした素敵なギャラリーに色とりどりのニットが並んでいた。その空間はまるで絵のようで、私はその美しさをぜひ写真に残したかった。でも、残念ながらあっという...
2022/12/03 02:01 - ひとりあそび -
スケートアメリカ2022男子シングルSPテレビ放送が少ない寒さ
スケートアメリカ2022が開幕した。男子シングル、皆さん、大きくなられたなあ、身長が伸びたなあという印象がまずある。三浦選手は最高のスタート。快調な爆走ぶりだ。テンポのはやいこの曲もすごくあっている。これは、好成績になって、ピアノジャック「組曲」のエキシビションが見られるかも。楽しみだ。島田選手は急なエントリーで調整が難しかったのだろう。ジャンプはステップアウトや転倒があったが、スピンはみご...
2022/10/23 06:43 - ぺらぺらうかうか堂(本&フィギュアスケート&映画&雑記) -
五十猛神が消された理由
天気の子に出てきた主人公、森嶋帆高くんの出身は神津島で、物忌奈命神社と阿波命神社が祀られるそうな。現在の東京都で、名神大社は阿波命神社と物忌奈命神社のみらしい。新海誠監督の出身、長野県佐久市は、神津島から移り住んだ人が多く、佐久市は宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと、別名穂高見命)が開拓したとされるのだとか。宇都志日金拆命というと、ホツマツタヱのカナサキ(金折・住吉)です。枝姓の宗像・...
2022/10/05 15:46 - まじゅらーしんがぷら2 -
ふたりの日本人デザイナー
今年の8月、ふたりの偉大な日本人ファッションデザイナーがご逝去された。どちらのデザイナーのお洋服も、私にはとても愛着がある。90年代半ば、あらたまった席にふさわしい1着を探していて出会った、HANAE MORI のジャケットスーツ。ノーラペルの少しドレッシーなジャケットには、首に直接ボウタイとして巻くたっぷりとした共布が付属していて、ビーズで作られたビジューのようなボタンがついている。今この...
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9月4日三宅島ツキチョウチョウウオ
水温28.9度透明度10m久々のツキチョウチョウウオです。他スミレヤッコにトサヤッコ、コバルトコガネヤッコなどにクマドリカエルアンコウは黄色と白が1個体づず明日は黒クマです。
タグ: 三宅島 ツキチョウチョウウオ -
2022.8.22 三宅島大久保クマドリカエルアンコウ5個体目
水温28度透明度10m5個体目のクマドリカエルアンコウです。今年一小さい子。
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三宅一生さんの話。
中々コンスタントにブログの更新ができていない今日この頃…でも、この方の訃報を知って、この想いを綴っておきたいな、と思ったので、いつもとはちょっとイレギュラーなタイミングでのブログ更新です。先日、子供達を寝かしつけて、ちょっと一息…なタイミングで、初めて知った三宅一生さんの訃報。私にとっては、特別な存在のデザイナーさんだったので、なんとも言えない気持ちになりました。最初に三宅一生さんを知ったの...
タグ: 三宅一生 IISSEY MIYAKE -
三宅一生さん死去2016年MIYAKE ISSEY展
昨日ですが、デザイナーの三宅一生さんがお亡くなりになったと言うニュースが入りました。僕はあまり服飾の方面には明るくないのですが、さすがに三宅一生さんのお名前くらいは知っています。思い出したのは、以前、三宅一生展に行ったな〜と。2016年のことでした。妻と一緒に見に行きました。ソニーα7 FE35mm/2.8 Lightroom 六本木の新国立美術館内はこういう展示がされていました。ちょうどロ...
2022/08/10 23:15 - tats@Blog -
【JAPON】【訃報】三宅一生他界
【JAPON】【訃報】三宅一生他界Le créateur de mode japonais Issey Miyake est mort三宅一生氏の訃報に接し、フランス大使館は悲しみを深くしています。パリでキャリアを積んだ三宅氏とフランスの結びつきは深く、2016年にはレジオン・ドヌール勲章のコマンドゥールを受章。幾何学を生かしたデザインとプリーツのスタイルは、オートクチュール界に革命をもたら...
2022/08/10 05:50 - 【フランス落書き帳】naoparis.exblog -
島内いろいろ:三宅島
2000年(平成12年)は私にとっても辛いときで心を閉ざしていたので三宅島の噴火については細かく承知していませんでした。今回三宅島を訪れて、噴火の痕跡の残る場所を訪ねて改めて島の人達のご苦労を思いました。この建物は海岸際に建っていた小学校、溶岩流に飲み込まれ、今も背の低い草が散見されるだけ。噴火は6月後半何の前触れも啼く始まり、その後2ヶ月間噴火や泥流で非難を繰り返し、9月には全島避難となり...
2022/06/17 15:36 - 赤いガーベラつれづれの記