"両津勘吉" の検索結果 672 件

  1. 土佐の森・文芸 (左行秀)

    土佐の森・文芸 (左行秀)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇左行秀の刀は土佐正宗の異名を持ち、真吉、長次郎の長刀をはじめ、山内容堂 (「土佐正宗」の名付け親)、板垣退助、吉田東洋、坂本権平(龍馬の兄)などが佩刀していたという。左行秀は刀工であるが、真吉と親交があった人物。九州の産だが縁あって土佐に来て、旧西土佐村(現四万十市)...

  2. 土佐の森・文芸 (龍馬の視点)

    土佐の森・文芸 (龍馬の視点)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇■日本の将来を見据えた龍馬の視点龍馬は海舟と付かず離れず終始行動をともにして天下の有能な見識をもった人士に会った。雄大な夢を持ち続け航海術も学びながら将来の日本の姿を考え続けた。広い世界との貿易を夢見た。新しい国、四民が平等で侍が威張らない国。外国と自由に行き来できる国。...

  3. 土佐の森・文芸 (イカルス号事件/英国水兵殺害事件)

    土佐の森・文芸 (イカルス号事件/英国水兵殺害事件)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇英国水兵殺害事件(イカルス号事件/1867.7.6)《真吉の日記・丁卯上京誌より》丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)*****************■丁卯上京誌(慶応3年<1867・丁卯の年>)◆慶応3年7月28日夜、由比猪内と佐々木三四郎が大坂に下る。佐々木三四郎...

  4. 土佐の森・文芸 (容堂は馬好きだが駕籠は嫌い)

    土佐の森・文芸 (容堂は馬好きだが駕籠は嫌い)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆容堂は馬好きだが駕籠は嫌い《日記・倦遣録より》幕末足軽物語樋口真吉伝完結編《『幕末足軽物語樋口真吉伝完結編』では、P226》・・・・・・・・・文久3年(1863)3月26日隠居が御帰馬する。大仏前でお休み。見送りに兵之助様が御来臨される。伏見で御泊まり。「御帰馬」が目を...

  5. 土佐の森・文芸 (薩摩藩士・高崎猪太郎<土佐と薩摩のこと>)

    土佐の森・文芸 (薩摩藩士・高崎猪太郎<土佐と薩摩のこと>)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇文久2年の暮れのこと、江戸で謹慎している山内容堂を高崎猪太郎という薩摩藩士が訪ねた。高崎は容堂の気に入り人物だった。山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)高橋猪太郎が容堂に忌憚なく囁く。~~~~~~~~~~公は恵まれ、国(=土佐である)を思う侍が数多いらっしゃる。弊藩に...

  6. 土佐の森・文芸 (生麦事件)

    土佐の森・文芸 (生麦事件)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<私観>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇勅使とともに江戸に入って公武合体と幕政改革を促した薩摩・島津久光の行列は帰途、横浜近郊の生麦で英人を殺傷した。島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)生麦事件である。これは単なる殺人事件に留まらず、日本国対英国の紛争に発展した。英国は日本国が徳川は大名の頂点に立つ権力だが...

  7. 土佐の森・文芸 (島津久光)

    土佐の森・文芸 (島津久光)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇文久2年4月、薩摩・島津久光は1,000人の兵を率いて入洛した。~~~~~~~~~~~[史実] Wikipediaより◆島津久光の上京、江戸へ。文久2年(1862)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する(3月16日鹿児島発、4月16日京都着)朝廷・幕府・雄藩の政治...

  8. 土佐の森・文芸 (松平春嶽)

    土佐の森・文芸 (松平春嶽)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆松平春嶽の「文久の改革」文久2年7月9日(1862年8月4日)、福井藩主松平春嶽は幕府の(新設の)政事総裁職に就任した。そして、御側御用取次の大久保一翁、軍艦奉行並に抜擢した勝海舟らと協議して、徳川慶喜らとともに幕政改革を行った。「文久の改革」である。かねての持論ど...

  9. 土佐の森・文芸 (伊達宗城)

    土佐の森・文芸 (伊達宗城)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇伊達 宗城伊予国宇和島藩18代藩主。(1818~1892)殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六(=大村益二郎)を招き、軍制の近代化にも着手した。大村益二...

  10. 土佐の森・文芸 (山内豊誉)

    土佐の森・文芸 (山内豊誉)

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[南史観<人物評伝>]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇山内豊誉は容堂の実弟で土佐藩家老。武市半平太を支持し吉田東洋の排斥を図ったが成功せず、半平太らが東洋の暗殺をすると混乱に陥った土佐藩の収拾に乗り出し、保守派政権を設立させた。その後、藩主・山内豊範の上洛、江戸参勤交代で辣腕をふるい、土佐勤王党の志士のなかに重きをなすよ...

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