"関ジャニ∞" の検索結果 216 件

  1. 『三国志拾遺 補――東アジア・石刻ほか』

    『三国志拾遺 補――東アジア・石刻ほか』

    コンテンツがほぼ確定しました.以下の通りです.本篇第一『後漢書』『三國志』所見「内属」試論第二類書の「東夷」観第三中江塔梁子三号墓壁画題銘試釈第四所謂「毋丘倹紀功碑」新釈附篇第一古代東アジア世界の構造第二東アジア文化圏論の現在第三古代北東アジア史上の渤海第四魏晋南北朝時代の東アジア――堀敏一著『中国と古代東アジア世界』によせて第五高昌・トゥルファンと中国――玉木重輝著『高昌国物語』によせて第...

  2. 『日本秦漢史研究』第23号

    『日本秦漢史研究』第23号

    酒井駿多「漢六朝期の巴蜀における蛮夷―いわゆる「巴蛮」と「獠」の呼称問題から見る―」を読みたくて(読む必要があると思って)取り寄せた.本号,飯田祥子氏が,伊藤敏雄・関尾編『後漢・魏晋簡牘の世界』を,津田資久氏が拙著『三国志の考古学』を批評してくださっており,両氏にはあらためて御礼申し上げなければならないが,それは機会をあらためるとして,酒井論文を読み進む.同氏も「民族」という概念を前近代史に...

  3. 柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

    柴田聡子「姜維の北伐と蜀漢後期の政権構造」

    再読か三読か忘れたが,読み直す.「はじめに」に,姜維は「隴以西」の獲得を直接的な目的としていた.という文があり,そこに註があって,その註(四)には,姜維の北伐の最終的な目的が国是である「漢室復興」であったことは言うまでも無い.とある.これによれば,直接的な目的は「「隴以西」の獲得」で,最終的な目的は「漢室復興」だったということになる.しかし直接的な目的と最終的な目的がどのように連動するのか,...

  4. 涼州北伐

    涼州北伐

    「涼州経由の北伐」とか「涼州を拠点とする北伐」とか,ほとんど悪い冗談に思えて来た.姜維の北伐は,主たる目標を隴西に定めていたが,これは野中敬氏に言わせると,諸葛亮の第三次北伐で,武都・陰平両郡を奪取していたからだという.並木淳哉氏によると,曹魏がこの一帯の氐を関中に徙民したので,この一帯が無人の地になっていたというので(もちろんこれは極論だが),奪取は容易だったのかもしれない.何度も隴西に侵...

  5. 06TAM605の随葬衣物疏

    06TAM605の随葬衣物疏

    話題があちらこちらにとぶのはこのブログの常として,表題の随葬衣物疏,以前から存在は知られていたのだが,朱雷先生の遺作『吐魯番出土文書補編』に初めて録文と写真が掲載され,全貌が明らかになった.で,タイトル.前涼咸安五年(公元三七七年)隗田英随葬衣物疏とある.何気なく見ていたのだが,ご丁寧に註がついていて,咸安が東晋の元号であることが述べられている.前涼が東晋の咸安を奉用していたことは,咸安五年...

  6. 氐

    曹操が漢中を制圧した際に,隣接する武都の氐はこれに抵抗した.やがて漢中は劉備の手におちるが,張既の進言に従って,武都の氐五万落余を扶風・天水両郡に移した.雍州刺史だった張既の伝と,武都太守だった楊阜の伝とでは記述内容に差があるが,劉備の北進を危惧してのことである.並木淳哉氏は武都郡はこれによって実土を失ったとする.219年のことだが,曹操は劉備(あるいは諸葛亮)が武都の氐を味方につけて関中に...

  7. ついでに

    ついでに

    柿沼陽平氏は吏民田家莂について,「「田家莂」は「徴税側の郷が作成し,郷と県とで分有した納税者台帳」とされる」(43頁上段)とする.末尾の「される」に註が附されており,そこには,2001年の拙稿「吏民田家莂の性格と機能に関する一試論」があがっている.21年前の旧稿だが,そこで私は「徴税側の郷が作成し」たとは書いていない.以下,旧稿からの引用.ようするに,倉曹(倉吏)や金曹(庫吏)に集積された小...

  8. 『中国中古史研究』第九巻

    『中国中古史研究』第九巻

    中国から届いた.中西書局,2021年12月,7-5475-1930-1,108元.復旦大学《中国中古史研究》編委会編だが,凌文超氏が主編といった役割で,「呉簡専号」と銘打っている.私も凌氏から執筆依頼を受けた.一旦は断ろうと思ったのだが(もう雑誌論文は書かないと宣言したことだし,呉簡研究を少しお休みしていたし),日本語原稿でかまわないと言われ,楬について小さな文章を書いた.今日届いた本を開け...

  9. 修正・続

    修正・続

    『嘉峪関壁画墓発掘報告』が,新城1,3~7号墓の墓室内塼画の壁面上の位置を表示し,『嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画』が.この6基に加えて新城12,13号墓の墓室内塼画の壁面上の位置を図示したことが,その後の塼画(図像史料)研究に大きな意味を持っていたとしみじみ思えてきた.それまでの(今でも)研究は1点ごとの塼画を読み取り,そこに描かれた生活の一齣を,出土墓が築造された時代の河西地域の現実と等置す...

  10. 修正

    修正

    直前の投稿は,嘉峪関新城三号墓の前室壁面の題銘だが,これで思いついたわけではないのだが,序章「魏晋・〈五胡〉時代の塼画墓・壁画墓」の第二節「塼画墓・壁画墓研究の成果と課題」の第一項「成果」の部分を全面的に書き換えることにした.河西地域の塼画墓・壁画墓の発掘報告で最初のものは,『嘉峪関壁画墓発掘報告』で1985年刊行である.これは私が新潟大学に赴任した年.嘉峪関新城墓群の塼画墓は,墓室の壁面に...

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