"超常現象" の検索結果 18 件

  1. 月経前になると肌荒れの症状が悪化する人は相当数いると思いますが

    月経前になると肌荒れの症状が悪化する人は相当数いると思いますが

    スキンケアは水分を補うことと潤いを保つことが重要とされています。従って化粧水で水分を補った後は乳液や美容液などをつけ、そしてクリームをさらに使って水分を逃さないようにすることが大事です。赤ちゃんの頃からアレルギー持ちの人は、肌がデリケートなため敏感肌になる傾向があるようです。スキンケアもできる範囲でやんわりと行わなければ、肌トラブルが増えてしまうでしょう。人間にとって、睡眠は大変重要になりま...

  2. 今年読んだ本から

    今年読んだ本から

    「自分はノンフィクションライターではないのか」という自覚?疑念?がうまれ、ノンフィクションを意識して読んだ。結果、あたりまえといえばあたりまえだが、現象学的な質的研究とノンフィクション文学との違いは意識できるようになった笑。とはいえもしも良質のドキュメンタリーが書けるのであればそれはそれで本望だし、現象学はまだドキュメンタリーの高さと重層性に届いていない。西成区にきがつくとほぼ毎週通っている...

  3. 『在宅無限大訪問看護師がみた生と死』(医学書院・ケアをひらく)

    『在宅無限大訪問看護師がみた生と死』(医学書院・ケアをひらく)

    『在宅無限大訪問看護師がみた生と死』という本を出しました(医学書院・ケアをひらく)。『摘便とお花見』(2013)がきっかけで訪問看護ステーションをしばらくのあいだ見学する機会をいただき、そこから出会った素敵な看護師の皆さんとの共同作業の成果です。在宅無限大: 訪問看護師がみた生と死 (シリーズ ケアをひらく)村上靖彦/医学書院「死」というものが訪問看護師によって再発明されつつあるというという...

  4. 16.超越論的な行為の地平

    16.超越論的な行為の地平

    超越論的還元のなかでのふるまいには形相的還元の前と後という2段階を設定することもできる。第1段階で「調和的な流れに内在する明証にただ身を任せる」(『デカルト的省察』第13節、邦訳63頁)。第2段階で、「超越論的な経験を批判的に吟味する」(同)というのだ。おそらく第2段階は形相的な還元の働きと重なり、さまざまな志向性の本質構造を明らかにする作業であろう。問題は第1段階である。「明証にただ身を任...

  5. 15.認識における経験の調和と行為論における経験のやぶれ

    15.認識における経験の調和と行為論における経験のやぶれ

    フッサールは超越論的主観性においては経験が多様であるにもかかわらず調和が取れていると考えた(『デカルト的省察』第13節、邦訳64頁、『受動的総合の分析』)。たしかにフッサールが前提としていた「正常な」主体においては経験は連続的である。知覚に一瞬迷いやまちがいがあったとしても、すぐに補正されて整合的な経験へと修練し直す。論理的な推論にまちがいがあったらそれはいずれ訂正される。もし、経験の調和、...

  6. 13.生の触発とリズム(リズム論2)

    13.生の触発とリズム(リズム論2)

    フッサールが明証と呼んだものが、行為論的な視点においては生からの触発へと変化し、フッサールにおいて超越論的主観性の最低次の内実として考えられた内的時間意識流がリズムだとすると、生からの触発とポリリズムとの関係はいかなるものになるのだろうか。他者にとってあるいは研究者にとって(看護師や患者の)生からの触発はポリリズムという仕方で現象する。フッサールは「経験の構造(たとえば、体験の流れの内在的な...

  7. 12.時間からポリリズムへ(リズム論1)

    12.時間からポリリズムへ(リズム論1)

    フッサールにおいて内的時間意識の研究が特権的な位置を占めていたことはよく知られている。このことは超越論的な主観性へと遡行したときに最も原初的かつ疑うことができない内実が「体験の流れの内在的な時間形式」(『デカルト的省察』第11節、邦訳61頁)として残るという事情によるであろう。この時間形式が個々の現象を「すべて貫いて広がっている」(同)ことが、超越論的主観性が(デカルトのコギトのような)単な...

  8. 11.明証から触発へ

    11.明証から触発へ

    真理の条件を探ったフッサールにとって、明証性とは疑うことができない明らかさということであり、認識の妥当性の根拠であった。しかしそもそも私たちは真理の位置を、認識や妥当性の領域からずらしていこうとしている。認識の問題として正しいのか正しくないのかにかかわらずインパクトを与えてしまうということに真理の位置を見定めようとしている。このようにしたときにインパクトの核には(死も含めて)「生」があるよう...

  9. 10.明証性と生

    10.明証性と生

    フッサールにおいて真理が位置する場所は明証性である。自分自身に現象が現れるということに明証性の起源があるわけであり、田口茂はフッサールにおいてこれが「原自我」という層へと行き着くことを示した(田口2003)。さて、行為論に視点を変更したときに、そして他者による現象学へと拡張したときに、明証性はどのような姿を取るのか、この問いは難問を投げかけるように思える。そもそも「明証性」という(認識論の文...

  10. 9.残余としての生

    9.残余としての生

    超越論的な主観性の明証性の最深部とは、真理性を支える疑うことが不可能な基礎であるとともに、おそらくはかっこに入れることが不可能な残余でもある。フッサールが「原自我」と呼んだこの層については、田口茂が『フッサールにおける“原自我”の問題―自己の自明な“近さ”への問い』(法政大学出版局)においてそのめまいをもたらす性格を描き出している。さて行為論的な現象学的還元においても、還元しきれない残余が残...

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