"池波正太郎" の検索結果 101 件

  1. 池波正太郎3月12日(日)

    池波正太郎3月12日(日)

    「鬼平犯科帳4」著池波正太郎この日も、朝のうちから気が遠くなるような暑熱で、「これは、どうも…たまらぬなぁ・・・」目白台の屋敷を出たときから、彼はもうげんなりしていた。彼とは…長谷川平蔵の長男・辰藏宣義である。

  2. 池波正太郎3月8日(水)

    池波正太郎3月8日(水)

    「鬼平犯科帳3」著池波正太郎編笠をかぶった浪人姿の変装で巡回中の山田市太郎は、また舌打ちを鳴らし、鼠坂を南へ下っていく。この辺りは武家屋敷やら空地が多く、日中でも、あまり人通りのない淋しい場所であった。芝から麻布にかけてが、今の山田同心の受持ち巡回地域であって、捕物出役以外の勤務は他の同心たちと同じように、絶えず巡回をしているのだ。この辺りも三日にあけず廻ることになっていた。

  3. 池波正太郎3月1日(水)

    池波正太郎3月1日(水)

    「鬼平犯科帳2」著池波正太郎(こいつ、おれを知っているな。だが、おれはこの男を知らぬ)であった。その客の両眼は、たちまち、瞼の中へ押し込められたように細く細く、見るからに人柄の良さそうな笑顔の一点景と変わってしまったが、一瞬前の、白く光った相手の眼に、平蔵は、自分へ向けられた〔憎悪〕を垣間見たような気がした。

  4. 池波正太郎2月20日(月)

    池波正太郎2月20日(月)

    「鬼平犯科帳1」著池波正太郎幕府の御先手組というのは、戦時ならば将軍出陣の先鋒をつとめるわけだが、徳川幕府なって百七十年を経た平和の世にはかくべつの用もない。しかし、いざ事変・暴動などが起きれば、先手組出役となって諸方を警備するわけで、こうした役目の性質上、弓組と鉄砲組に分かれた〈御先手組〉が、〔火附盗賊改方〕という役目につくことがある。

  5. 映画「仕掛け人・藤枝梅安」

    映画「仕掛け人・藤枝梅安」

    地元のイオンシネマで上映二週目の土曜日、2月11日に見てきた。結構入っている、と言う感じ。ただ、観客の年齢層が比較的高めに感じた。これは池波正太郎生誕100年の企画だそうだ。予告編、チラシを見ると、結構配役が豪華だ。豊川悦司が梅安、愛之助が仕掛人彦次郎、それから、柳葉敏郎、菅野美穂、天海祐希、小林薫、若林豪、高畑淳子、六角精児、これは「相棒」つながりだろうか、小野了、ほんのちょい役に鷲尾真知...

  6. 池波正太郎1月17日(火)

    池波正太郎1月17日(火)

    「黒幕」著池波正太郎「われに、七難八苦をあたえ給え!!」空に浮かぶ三日月を仰ぎ、鹿之助が叫んだのは、このころのことである。不幸を追い払って信念をよぶためのいのりであった。(命をかけての苦労が実をむすばぬ筈はない。主家再興の正義のために戦うおれの心が天に通ぜぬ筈はない!!)

  7. 池波正太郎のお気に入り神田まつやと竹むら

    池波正太郎のお気に入り神田まつやと竹むら

    上野でのお昼は洋食のつもりでしたが、土井善晴さんの和食アプリで、ぜんざいを見てしまったので、一気に汁粉モードへ。そうくれば、池波正太郎氏のお気に入りの散歩コースの神田にまいりましょう。ここは神田連雀町と呼ばれていた界隈で戦災をまぬがれたため、そば屋の「まつや」、あんこう鍋の「いせ源」、鳥すきやきの「ぼたん」、汁粉屋の「竹むら」には、むかしながらの東京が残っています。まずは、「神田まつや」へ、...

  8. 早とちり

    早とちり

    きのうの記事への小言幸兵衛さんのコメントへの返信で、日本橋に高速道路をかぶせた愚挙について、池波が、そういうことをした「木っ端役人を恨んでいます」と書いたけれど、読み直してみるとそうは書いていない。ちょうど本書の書き方の見本にもなるので、「名橋・日本橋」の全文を載せる。日本橋は、江戸以来の、東京の[名橋]であった。この橋には、東京の歴史の重味が、ずっしりとかかっていた。その[名橋]の上へ、高...

  9. 東京も悪くない「東京の情景」(池波正太郎)

    東京も悪くない「東京の情景」(池波正太郎)

    カミさんの用に付き添って朝から外出、すばらしい青空だというのに、その下を歩いている僕の靴のみすぼらしさといったら!拭いても落ちない汚れ、夕方の近所や落葉の公園の散歩では目立たなかったが、降り注ぐ光の中で都会のペーブメントを歩くと、汚れだけでなく履き心地の悪さまで感じて気分がめいる。(自由が丘駅前)いぜん、学芸大学を散歩していて、自分に合った靴選びの相談に応じるという看板が出ている靴屋に飛び込...

  10. 池波正太郎11月11日(金)

    池波正太郎11月11日(金)

    「疼痛二百両」著池波正太郎毛利勝永が土佐へ流されてから、大坂冬の陣の戦端がひらかれるまで十五年を経ている。勝永は三十七歳になっていた。この十五年の間、勝永は、もっとも理想的な子であり、夫であり、父であったといえよう。

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