"応神天皇" の検索結果 7 件

  1. 邪馬台国東遷説応神天皇の大和朝廷征服

    邪馬台国東遷説応神天皇の大和朝廷征服

    私の邪馬台国東遷説は、紀元400年頃応神天皇が神功皇后とともに、大和朝廷の正当な後継者を滅ぼし、大和朝廷の3人の女性後継者と結婚し、大和に倭国・大和朝廷連合王国を打ち立てたというものです。その前提として、日本書記の神功皇后記は、紀元100年~400年の九州を中心とした倭国(邪馬台国)の歴史を記述したものと会社します。その一例、卑弥呼の鬼道の描写を紹介します。卑弥呼の鬼道の詳細が、日本書記...

  2. 邪馬台国九州説応神天皇による大和征服

    邪馬台国九州説応神天皇による大和征服

    応神天皇から光仁天皇まで、天皇の相続は双系相続であったことが知られる。応神天皇の結婚を双系相続の視点で分析すると、応神天皇の大和征服が明確となる。 また神功皇后は、筑前で紀元100年~400年の間新羅征伐を繰り返し、それを支えたのは、筑前の3つの神社住吉、志賀海(安曇)、宗像である。摂津にある住吉神社は、応神天皇の大和征服に住吉が協力し、住吉もそのまま摂津に定住したことによるものである。 『...

  3. 双系相続と応神天皇

    双系相続と応神天皇

    双系相続とは、血縁関係にある男性と女性が結婚することにより、男性が一族のリーダーとなり、女性が一族の財産を相続するという仕組みである。天皇位は、男性も皇族、女性も皇族である夫婦で相続するもので、しかも同母の兄・妹が婚姻するのを避けるため、一人の皇族の男性が別の皇族の姉妹と婚姻する姉妹婚がさかんに行われた。これは一夫・一婦の子供同士が結婚すると同母となるため、姉妹が同じ男性と結婚し、その後、...

  4. 近江商人の氏神・日牟禮八幡宮。

    近江商人の氏神・日牟禮八幡宮。

    前稿まで近江八幡市にある八幡山城とその城下町を歩いてきましたが、その八幡山城の麓、シリーズ「その1」で紹介したロープウェイ乗り場のすぐ側に、日牟禮八幡宮があります。近江八幡の城下町に鎮座するこの神社は、古くから八幡商人(近江商人)の尊崇を集めてきました。 日牟禮八幡宮の歴史はめちゃめちゃ古く、伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇(第13代天皇)が高穴穂の宮に即位のとき、武内宿禰に...

  5. YouTube「新版 日本国紀」応神天皇=聖徳太子に一票\(^_^ )

    YouTube「新版 日本国紀」応神天皇=聖徳太子に一票\(^_^ )

    第10回、見ました。何が何やら、サッパリ?(ーー゛)??もっとも印象に残ったのは、「日本書紀」編纂者の苦労に、同じ作家として共感しているってところ。超意味深じゃん。「何とか真実を残したい」という苦労でしょ。「日本書紀」の編纂者は、私的には清原元輔さん。平安時代。藤原氏が自分たちが「正統」であるってゆう「歴史」を残すために編纂を命じた。藤原氏はニワカ大和だから、和歌なんか作れないから、ぜーんぶ...

  6. ヤマト政権の内部抗争と地域王権「タニハ」の衰退ー①

    ヤマト政権の内部抗争と地域王権「タニハ」の衰退ー①

    四世紀の丹後半島には、丹後三大古墳といわれる蛭子山古墳(与謝郡与謝野町:墳丘長145m)、網野銚子山古墳(京丹後市網野町:墳丘長約200m)、神明山古墳(京丹後市丹後町:墳丘長190m)➡「伊佐姫」そして「神明山古墳」に眠る三代目丹波道主「朝廷別王」 などの前方後円墳が相次いで築造されていた。これらの古墳はタニハ全域を見渡してもその巨大さは際立っており、これらの被葬者たちがタニハ広域連合の王...

  7. 押熊八幡神社

    押熊八幡神社

    6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。拝観を終えた後に、参拝してきた。押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王麛坂王旧跡地と記されている以下、境内看板による『日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大...

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