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  1. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その9<大池~番所・切通>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その9<大池~番所・切通>

    「その8」のつづきです。大松山城の東側には、備中松山城の水源となっていた大池があります。 大池は発掘調査中だったため、ロープの中には入れませんでした。 大池は大松山城と天神の丸の間の谷部(標高443m付近)に築かれた総石垣の池です。地元では「血の池」や「首洗いの池」と呼ばれ、刀や首を洗ったとの逸話が伝わっているそうです。 大池周辺では平成16年(2004年)の台風により周囲の木が倒れ、その後...

  2. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その8<大松山城>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その8<大松山城>

    「その7」のつづきです。備中松山城天神の丸跡をあとにして、北の大松山城跡に向かいます。前稿でも説明しましたが、備中松山城のある臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山と称される4峰で構成されており、現存天守のある本丸を中心とした城は、小松山の山頂にあります。そのため、備中松山城は別名、小松山城といい、鎌倉時代に築かれたとされる創築期の城は、小松山城より500mほど北の大松山にあったとされます...

  3. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その7<水の手門~天神の丸跡>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その7<水の手門~天神の丸跡>

    「その6」のつづきです。二ノ丸北側の水の手門から北へ進みます。備中松山城のある臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山と称される4峰で構成されており、ここまで見てきた現存天守のある本丸を中心とした城は、小松山の山頂にあります。そのため、備中松山城は別名、小松山城といいます。鎌倉時代に築かれたとされる創築期の城は、これより500mほど北の大松山にあったとされ、その後の動乱の世相を受けて4峰に城...

  4. 妖怪狂言「熊本三獣士」っ‼️

    妖怪狂言「熊本三獣士」っ‼️

    久しぶりの狂言っ!普段見慣れない為かセリフを聞き解読するのに大変・・・。そしてたまたま夜にテレビで「能」をやっていて、なんとわかりやすい事かっ!そぎゃんっ!字幕があったからっ!出来れば舞台上にスクリーン出してセリフを見せてくれると嬉しいとばい。その昔、ジャンポールベルモンドさん主演のシラノドベルジュラックがおフランスから来た時、日本語字幕付きで楽しめた事を思い出したとばいっ!

  5. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その6<二ノ丸帯曲輪~後曲輪>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その6<二ノ丸帯曲輪~後曲輪>

    「その5」のつづきです。備中松山城天守まで攻略しましたが、城の搦手にあたる天守の北側にもまだ櫓跡があります。今回はその北側を攻めます。 「その3」で紹介した二ノ丸に戻ってきました。この本丸東側の石垣は、平成28年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像で使われたロケーションです。 その説明書きがありました。 石垣に沿って北へ進みます。 「その4」で紹介した本丸東御門の外側です。...

  6. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その5<天守>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その5<天守>

    「その4」のつづきです。再び備中松山城天守の南側に戻ってきました。今回は天守をじっくり見ていきましょう。 備中松山城の天守は、高さ11mと現存12天守のなかでは最も小さな天守ですが、自然の岩を削りだした上に石垣の天守台を作り、その上に天守が築かれていおり、岩盤と石垣を合わせると、高さは約19mあります。何より、現存12天守の中では日本で最も標高の高い場所にある現存天守です。 二層二階の小規模...

  7. 鎌倉殿の13人第34話「理想の結婚」~時政の専横と実朝の縁談~

    鎌倉殿の13人第34話「理想の結婚」~時政の専横と実朝の縁談~

    源実朝が三代鎌倉殿となり、祖父の北条時政が侍所別当と執権に就任すると、ここから時政の専横がはじまります。あくまで幼い将軍の代理という名目ではあるものの、自身の署名と花押を記した公式文書を次々と発給。頼朝、頼家時代には幕府の要職に任じられることのなかった時政でしたが、ライバルの比企が滅び、執権という要職に就いたことで、タガが外れたように権力集中に走ります。ドラマのように、裁判の判決権を傘に賄賂...

  8. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その4<本丸>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その4<本丸>

    「その3」のつづきです。備中松山城二ノ丸から見た本丸石垣です。 土塀の右側の櫓が五の平櫓、その左側が六の平櫓、五の平櫓の向こうに見えるのが、天守です。 現存天守が残る本丸をい中心とした備中松山城は、別名・小松山城とも言います。小松山城があるということは、大松山城もあります。鎌倉時代に秋庭三郎重信が築いたとされる創築期は、臥牛山主峰の大松山(標高約470m)に築かれていましたが、その後、次第に...

  9. 現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その3<三ノ丸~二ノ丸>

    現存天守唯一の山城、備中松山城攻城記。その3<三ノ丸~二ノ丸>

    「その2」のつづきです。備中松山城三ノ丸から北側の石垣群を見上げます。 右の石垣上に見える土塀は現存土塀だそうで、その段の曲輪が厩曲輪です。そして何段か石垣が続いて、一番上の段の幟が見えるところが、二ノ丸です。 西側から見た石垣と土塀。 木製の看板には、国指定の重要文化財が記されています。それによると、天守と二重櫓、そして「その2」で紹介した三ノ平櫓東土塀が重要文化財のようです。 上野の段に...

  10. 鎌倉殿の13人第32話「災いの種」~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~

    鎌倉殿の13人第32話「災いの種」~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~

    比企の乱によって幕府内の権勢を手中にしたかに思えた北条でしたが、想定外の事態が発生します。危篤状態にあった源頼家が、奇跡的に回復したんですね。比企一族の滅亡、千幡の鎌倉殿擁立は、すべて頼家が亡くなるという前提で行われたものであり、頼家の蘇生に北条時政をはじめとする北条派がうろたえたのは想像に難しくありません。 『吾妻鏡』によると、頼家が事態を知ったのは、比企一族の壊滅から3日後の建仁3年(1...

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