"徳川" の検索結果 296 件

  1. 駿河城に行ってきた

    駿河城に行ってきた

    歴史と素適なおつきあい番外編2023・1・31城主は今川氏。14世紀駿河守護今川氏によって今川館があった。大河ドラマでうじざねが出てくるので嬉しかった。発掘現場が見たくて訪問した。戦国時代今川義元が勢力を張り、甲斐武田氏、後北条氏と同盟を結んだ。が、桶狭間の戦いで信長に滅ぼされると同盟は解消され、武田信玄により館は焼失した。武田氏が滅びると徳川家康が所領した。後北条氏が滅びると一時豊臣系の中...

  2. 吉田松蔭の魅力

    吉田松蔭の魅力

    気立てのよい、よく笑う看護師たちだが、こんなに朝早くから笑わなくてもと思ったら、もう6時だ。大きな木がゆらゆら揺れて風の強い朝。あれは新宿でなくて渋谷のビルのようだ。今朝が最後の早朝散歩、禁を侵して西病棟に入り込んで富士山に挨拶する。「天皇の世紀 2 大獄」読了、とても面白かった。若い頃、部屋住まい日陰の暮らしが17年も続き、思いもよらず家督を継いだばかりか、大老に抜擢された井伊直弼は、小心...

  3. どうする家康第4話「清須でどうする!」~清州同盟~

    どうする家康第4話「清須でどうする!」~清州同盟~

    今川氏真を見限った松平元康(のちの徳川家康)は、織田信長との連携に踏み切りました。通説によると、永禄5年(1562年)正月に元康が尾張の清州城に赴き、信長と会見して盟約を結んだとされています。江戸幕府の公式史書『徳川実紀』の『東照宮御実紀付録巻一』には、このときのことを次のように記されています。 かくて御盟約定まりければ、尾州清州におはして信長に面会し給ひ。今より後互に力を戮わせ心を同うして...

  4. 1月28日  逸話の日・「梅耐百雪潔」・家康とお茶

    1月28日 逸話の日・「梅耐百雪潔」・家康とお茶

    今日は、1月28日の語呂合わせから、「逸話の日」。世間にあまり知られていない興味深い話を語り合う、という日なのだそうです。昨日は、久しぶりにお会いした方と、ランチをご一緒しました。ウィルス蔓延の間、ずっとお目にかかっておりませんでしたので、もう3年以上のご無沙汰になるでしょうか。ゆっくりお話が出来て、嬉しい一日になりました。写真は、昼食を頂いたお店に飾られていた盆栽です。左が「金豆(キンズ)...

  5. 家康、吉良義昭を攻撃し今川家から離反(「どうする家康」14)

    家康、吉良義昭を攻撃し今川家から離反(「どうする家康」14)

    家康、吉良義昭を攻撃し今川家から離反(「どうする家康」14) 今川氏真の支援を得られなかった徳川家康(当時は松平元康)は、やがて織田信長と和睦し、三河統一に向けて、西三河の国衆たちを従えていきます。その中には、名族吉良氏がいました。「どうする家康」では、矢島健一さん演じる吉良吉昭が登場しました。そこで、今日は吉良氏の説明をしつつ、徳川家康が今川家から離反したことについて書いていきます。 吉良...

  6. 今川氏真が援軍を送れなかった理由(「どうする家康」13)

    今川氏真が援軍を送れなかった理由(「どうする家康」13)

    今川氏真が援軍を送れなかった理由(「どうする家康」13) 桶狭間の戦いの後も今川方にたって織田方と戦っていた徳川家康(当時は松平元康)が盛んに今川氏真に援軍の要請をしているにもかかわらず、なかなか援軍が送ってこないため、松平家の家臣たちがイライラする場面がありました。実は、今川氏真は三河に援軍を送りたくても送れない事情がありました。今日は、なぜ氏真が援軍をおくれなかったのか、その理由・事情を...

  7. どうする家康第3話「三河平定戦」~今川離反の決意~

    どうする家康第3話「三河平定戦」~今川離反の決意~

    今回は岡崎に帰った松平元康(のちの徳川家康)が、これまで通り今川に付いて織田と戦うか、あるいは、これを機に今川を見限って織田に与するかという、まさに「どうする」の話でしたね。劇中、家臣たちが今川に付くか織田に付くかで乱闘になっていましたが、実際にも、きっと家中の意見は分かれていたでしょう。じゃあ、当の元康は、どうだったのでしょう? 桶狭間の戦い後、元康はまず西三河の平定に着手します。他方で、...

  8. 家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12)

    家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12)

    家康と信長の和睦を取り次いだ水野信元(「どうする家康」12) 「どうする家康」第3回でしばしば登場したのが水野信元です。そこで、今日は水野信元について書いていきます。 「寛政重修諸家譜」によると、水野氏の家祖は重房といい、「尾張国知多郡英比(あくひ)郷小河(小川又は緒川とも:現在の愛知県知多郡東浦町緒川)に住し、小河を称号とす」と書いてあり、もともと小河と言っていたようです。その後、春日井郡...

  9. 伝通院

    伝通院

    ブラタモリならぬブラタマリ(ワタクシたまが歩きました)解説者は歴史に詳しいオットさん文京区は小石川界隈をブラタマリ道の真ん中にそびえたつ桜の大木地元の御神木のようです満開の頃を見てみたい🌸この辺り古い寺院が点在しておりその中でもこちらは特に古そうなお寺(山門)ですがとても風情があります小石川善光寺月参堂(浄土宗)と書いてありますお参りの方も見えましたよ調べてみると慶長...

  10. 家康は桶狭間の戦い直後は今川方だった(「どうする家康」11)

    家康は桶狭間の戦い直後は今川方だった(「どうする家康」11)

    家康は桶狭間の戦い直後は今川方だった(「どうする家康」11) 「どうする家康」第3回では、徳川家康(当時は松平元康)が今川方に属したままでいくか織田方につくかで思い悩む姿が描かれていました。第3回で描かれていたのは、桶狭間の戦いの終わった永禄3年(1560)5月から約1年間の間のことだと思います。下写真は臨済寺で所蔵されている徳川家康の木像です。今回の「どうする家康」をみて、徳川家康は桶狭間...

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